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また 文京 区 の 柳沢 吉保 邸 で あっ た 六義園 に 展示 さ れ て いる 江戸 地図 に 三河 島 近辺 は 田畑 の 表記 に なっ て いる 。

明治 以降 、 屠殺 場 や 皮革 工場 、 また 下水 処理 場 ( 三河 島水 再生 センター ) など の 施設 が 建設 さ れる よう に なり 、 戦前 戦後 にかけて 、 それら の 工場 や 施設 に 日本人 労働 者 や 朝鮮半島 出身 者 ( 多く が 済州 島 出身 者 ) が 移住 し て 働く よう に なっ た 。

1962 年 に は 「 国鉄 戦後 五 大 事故 」 の 一つ と さ れる 死者 160 人 を 出し た 三河 島 列車 衝突 事故 が 発生 し た 。

三河 島 」 という 地名 は 荒川 区 で 広範囲 にわたる 地域 名 で あっ た が 、 前述 の 鉄道 事故 の イメージ を 払拭 する ため に 1968 年 ごろ 廃止 さ れ 、 三河 島 の 中心 部 は 「 荒川 」 に 、 周辺 部 は 他 の 地名 に 組み入れ られ 、 現在 で は 駅名 や 保育園 の 名前 など として 残る のみ と なっ て いる 。

駅前 の 尾 竹橋 通り 沿い に ある 「 三河 島 駅前 」 バス停 から 発着 する 。

所領 も 駿河 ・ 遠江 から 、 三河 や 尾張 の 一部 に まで 拡大 する 等 、 戦国 時代 における 今川 家 の 最盛 期 を 築き上げる も 、 尾張 国 に 侵攻 し た 際 に 行わ れ た 桶 狭間 の 戦い で 織田 信長 に 敗れ て 戦死 し た 。

さらに 追い 討ち を かける が 如く 、 尾張 国 ( 愛知 県 西部 ) の 織田 信秀 が 天文 9 年 ( 1540 年 ) に 三河 国 ( 愛知 県 東部 ) に 侵攻 を 開始 し た 。

義元 は 三河 に 援軍 を 送り 三河 の 諸侯 軍 と 連合 し て 天文 11 年 ( 1542 年 ) に 織田 軍 と の 一大 決戦 に 臨む が 、 その 猛攻 の 前 に 敗れ た と さ れ て いる ( 第 一 次 小豆 坂 の 戦い ) 。

一方 、 三河 において は 西 三 河 の 松平 広 忠 の 帰順 を 受け 、 嫡男 ・ 竹 千 代 ( 後 の 徳川 家康 ) を 人質 に 迎え入れる 約束 を 交わし 、 尾張 の 織田 家 の 妨害 を 受け つつ も 、 着実 に 三河 勢 の 従属 化 に 努め て いっ た 。

天文 17 年 ( 1548 年 ) 、 義元 の 三河 進出 に 危機 感 を 覚え た 織田 信秀 が 侵攻 し て くる が 、 義元 の 軍師 で ある 雪 斎 と 譜代 重臣 で ある 朝比奈 泰 能 ら を 大将 と し た 今川 軍 は 織田 軍 に 大勝 し 、 織田 家 の 勢力 を 事実 上三河 から 駆逐 し た ( 第 2 次 小豆 坂 の 戦い ) 。

天文 18 年 ( 1549 年 ) 、 松平 広 忠 が 死去 する と 、 義元 は 領主 不在 ( 竹 千 代 は 織田 の 人質 ) の 西 三 河 に 向け て 今川 軍 を 岡崎 城 ( 現在 の 愛知 県 岡崎 市 ) へ 送り込み 、 事実 上松 平家 の 所領 を 領有 し 、 その 支配 下 に あっ た 三河 国 の 国人 領主 を 直接 支配 下 に 取り込ん で いっ た 。

また 、 織田 方 の 三河 安 祥 城 ( 現在 の 愛知 県 安城 市 ) を 攻略 し 信秀 の 庶 長子 にあたる 城 将 ・ 織田 信広 を 捕らえ 、 人質 交換 によって 竹 千代 を 奪還 、 実質 自ら の 配下 と する こと で 尾張 進出 へ の 足掛かり を 着々 と 築い て いく 。

駿河 ・ 遠江 ・ 三河 で 検地 も 実施 し て いる 。

永 禄 元年 ( 1558 年 ) に は 、 支配 下 に おい て い た 松平 元康 を し て 、 三河 加茂 郡 寺部 城 の 鈴木 重 教 を 攻め させ て 下し た 。

一方 、 義元 は 新 領土 で ある 分 国 の 三河 の 鎮圧 および 経営 に 集中 し 、 それ が 成る と さらに は 尾張 以西 へ の 侵攻 に 力 を そそぐ こと と なる 。

その後 、 残存 し た 今川 兵 によって 駿府 まで 連れ帰ろ う と 試み られ た 首 の 無い 義元 の 遺体 は 想像 以上 に 腐敗 の 進行 が 早く 、 三河 国 宝飯 郡 に 埋葬 さ れ た 。

この 様 な 三河 の 動揺 が 隣国 ・ 遠江 に 伝播 する と 、 正誤 の 判別 が つか ない 噂 が 飛び交い 、 遠江 領内 は 敵 味方 の 見極め さえ 困難 な 疑心暗鬼 の 状態 に 陥っ て しまっ た ( 遠 州 錯乱 ) 。

桶 狭間 合戦 当時 の 最盛 期 の 義元 の 領国 は 、 駿河 ・ 遠江 ・ 三河 の 3 カ国 69 万 石 ( 太閤 検地 ) で ある 。

日本 軍 参謀 本部 作成 の 日本 戦史 における 桶 狭間 役 の 分析 で は 、 石高 の 低い 駿河 ・ 遠江 ・ 三河 が 水増し さ れ 、 さらに 尾張 が 領国 に 組み入れ られ 、 100 万 石 と 推定 さ れ 、 1 万 石 につき 250 人 の 兵役 で 、 総 兵力 2 万 5 千 と さ れ て いる が 、 信長 公 記 で は 4 万 5 千 と なっ て おり 、 正確 な 実数 は 不明 で ある 。

この 時期 の 三河 国 へ の 文書 発給 は 義元 の 名 で 行わ れ て いる こと から 、 義元 が 新 領土 で ある 三河 国 の 掌握 と 尾張 国 から さらに 西方 へ の 軍事 行動 に 専念 する ため 、 氏真 に 家督 を 譲り 形式 上 隠居 し 本国 で ある 駿河 ・ 遠江 の 経営 を 委ね た と する 見方 が 提示 さ れ て いる 。