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応永 32 年 ( 1425 年 ) 、 九州 探題 渋川 義 俊 が 少 弐満 ・ 菊池 兼 朝 ら に 敗れる と 帰国 し て 九州 に 下向 し 反乱 を 平定 、 以後 は 義 俊 の 従弟 で 新た な 九州 探題 渋川 満直 を 援助 し て 九州 の 勢力 拡大 に 取り組み 、 永 享 元年 ( 1429 年 ) に 再度 上洛 し て 新 将軍 と なっ た 足利 義教 に 拝謁 、 筑前 が 幕府 の 御料 所 と なる と 筑前 の 代官 に 任命 さ れ た 。

しかし 、 少 弐満 や 大友 持 直 と 筑前 の 領有 をめぐって 敵対 関係 と なり 、 九州 に 遠征 し て 両氏 と 戦っ た が 、 永 享 3 年 ( 1431 年 ) に 筑前 国 怡土 郡 にて 戦死 し た ( 戦没 地 として は 怡土 荘 説 と 深江 荘 説 が ある ) 。

北条 将 ( ほうじょう さだ ゆき 、 さだ まさ ) は 、 鎌倉 時代 末期 の 北条 氏 金沢 流 の 武将 。

鎌倉 幕府 15 代 執権 ・ 北条 顕 の 嫡男 。

屋号 を 用い て 金沢 ( かね さ わ ) 将 と も 呼ば れる 。

兄 に 顕 助 が いる が 庶子 扱い さ れ て いる ので 、 正室 ( 北条 時 村 の 娘 ) の 長男 で ある 将 が 嫡子 で ある 文 保 2 年 ( 1318 年 ) に 評定 衆 と なり 、 引付 五 番頭 人 など を 務める 。

正中 元年 ( 1324 年 ) 9 月 19 日 に 正中 の 変 が 発生 する と 、 11 月 16 日 に 六 波 羅 探題 南方 と なり 上洛 する が 、 この 時 に 将 は 5000 騎 の 軍勢 を 率い て 上洛 し た 。

将 は 以後 、 執権 探題 として 京都 の 動静 を 探り 職務 を 遂行 し て いっ た 。

元 徳 元年 ( 1329 年 ) より 父 ・ 顕 の 根回し も あり 、 元 徳 2 年 ( 1330 年 ) 4 月 に 探題 職 辞任 が 決定 し 、 7 月 11 日 に 正式 に 辞任 し て 京都 を 出発 し た 。

ここ に は 新田 氏 の 一族 で ある 堀口 満 に 攻め られ 、 戦い は 5 月 20 日 から 5 月 22 日 まで 激しく 攻め 続い た と いう 。

軍記物語 『 太平 記 』 巻 第 10 の 「 大仏 直 金沢 将 討死 事 」 で は 将軍 は 連戦 で 兵力 が 800 人 に まで 減少 し た ため 、 北条 一門 の 篭る 東 勝 寺 に 撤退 し て 得 宗 の 北条 高 時 に 最後 の 挨拶 を 行なっ た が 、 この 時 に 高 時 から それ まで の 忠義 を 賞 さ れ て 六 波 羅 探題 の 両 探題 職 と 相模 の 守護 職 を 与え られ た と し て いる 。

だが 当時 の 将 は 引付 頭 人 1 番 の 職 に あり 、 また 六 波 羅 探題 職 も かつて 在職 経験 が ある ため 逆 に 左遷 に 近い 恩賞 を 与え られ て いる 事 に なる ( 恩賞 に なる の で あれ ば 父 ・ 顕 と 同じ 連署 か 執権 へ の 就任 だけ で ある ) 。

5 月 7 日 に 京都 で 六 波 羅 探題 が 足利 尊 氏 ら によって 陥落 さ せ られ た 情報 が 九州 に まで 届く と 、 それ まで 従順 で あっ た 経 や 宗 、 さらに は 島津 久 ら が 離反 し て 攻め て 来る 。

元 亨 2 年 ( 1322 年 ) 3 月 15 日 、 足利 氏 を 烏帽子 親 として 元服 、 「 氏 」 の 偏 諱 を 与え られ て 、 初め 氏 信 と 名乗っ た 。

南北 朝 時代 の 動乱 で 北朝 ( 氏 の 子 ・ 足利 尊氏 ) 側 に 付い た 父 の 信武 は 、 その 戦功 により 、 建 武 3 年 ( 1336 年 ) に 安芸 守護 職 を 与え られ ( 及び 翌 4 年 ( 1337 年 ) に 甲斐 守護 職 も 兼任 し た ) 、 安芸 国 の 佐東 銀山 城 を 拠点 に 南朝 側 勢力 と 戦っ て い た 。

戒名 、 天徳 院 殿 乾 運 淳 大 禅定 尼 。

寺 名 は 加賀 藩主 前田 利常 の 正室 珠 姫 の 法号 で ある 天徳 院 殿 乾 運 淳 大 禅定 尼 に 因ん で いる 。

派遣 さ れ た 平家 方 の 侍大将 大夫 判官 飯富 季 、 摂津 判 官平 盛 澄 の 軍 と 源 義 基 、 源 義兼 ら は 洛外 や 石川 源 氏 の 本拠地 で ある 河内 国 石川 庄 で 抗戦 する が 、 大勢 を 覆す こと は でき ず 、 一族 の 多く が 討た れ 、 石川 源 氏 の 勢力 は 大きく 衰退 する 。

この 戦い の 際 に 注目 さ れる の は 、 平家 方 の 大将 が 同じ 源義家 の 子孫 で 、 源 義兼 から 見る と 又 従兄 の 子 に あたる と 思わ れる 源 季 で ある こと で ある 。

源 季 は 父 の 代 から の 平家 郎党 で ある という こと で 平家 方 で あっ た ため に 、 同族 を 討伐 する 大将 に なっ た と も いえる が 、 これ に も 諸説 が ある 。