さらに 1982 年 に は 新潟 駅 が 南口 の 開設 に際して 、 旧来 の 北側 出入口 に 「 万代 口 」 という 愛称 を 与え た 。
かつて 、 新潟 市 の 市街地 と 沼垂 町 と の 間 の 信濃川 に は 橋 が 無く 、 古く から 渡船 によって 連絡 さ れ て い た 。
1873 年 以降 、 新潟 県 に は 民間 から の 架橋 計画 が 相次い で 寄せ られ て い た が 、 県 は 「 信濃川 の 整備 を 最 優先 する 」 と の 名目 で 計画 の 受理 を 拒み 続け て い た 。
新潟 日日 新聞 ( 現在 の 新潟日報社 の 前身 の 1 つ ) 社長 の 内山 信太郎 は 1883 年 、 県 に 1 度目 の 架橋 計画 を 提出 し た が 受理 さ れ ず 、 翌 1884 年 に 県 が 信濃川 の 整備 計画 を 決定 し た 後 に 、 内山 の 計画 は ようやく 受理 さ れ た 。
八木 は 一 度 は 援助 を 断っ た ものの 、 北蒲原 郡 葛塚 町 ( のち の 豊栄 市 、 現在 の 新潟 市 北 区 ) の 豪商 が 出資 に 同意 し た こと から 援助 を 決断 し た 。
永世 、 永久 など の 意 ) まで も 新潟 の 街 の 発展 に 尽くす こと を 願っ て 「 萬代 橋 」 と 名付け られ た 。
渡橋 が 有料 で ある こと に関して は 利用 者 から も 不評 で 、 作家 の 尾崎 紅葉 が 1899 年 に 新潟 を 旅行 し た 際 に 、 萬代 橋 で 橋銭 を 徴収 さ れ た こと に 憤慨 し て い た という 逸話 も 残っ て いる 。
当時 の 新潟 は 「 河川 蒸気 」 と 呼ば れる 乗合 汽船 による 水運 が 交通 の 主体 だっ た が 、 鉄道 の 開通 によって 萬代 橋 の 重要 性 は 徐々に 増し つつ あっ た 。
また 交通 量 が 増加 する 一方 、 橋 が 有料 で 、 かつ 一個人 の 所有 物 で ある こと に対して 世論 も 疑問 を 呈し 始め 、 新潟 の 発展 の ため に は 行政 が 橋 を 管理 す べき という 世論 が 高まっ て いっ た 。
こうした こと を 受け 、 新潟 県 は 1900 年 に 萬代 橋 を 約 15 , 900 円 で 買収 し た 上 で 県道 として 管理 する こと に なり 、 開通 から 14 年 目 に し て 無料 化 さ れ 、 のち に 夜間 照明 も 設置 さ れ た 。
1904 年 に は 、 北越 鉄道 が 萬代 橋東詰 に 開設 さ れ た 新潟 駅 まで 延伸 開通 し 、 萬代 橋 の 交通 量 は 増加 の 一途 を たどっ た 。
1907 年 2 月 2 日 に 沼垂 町 で 発生 し た 大火 で は 、 沼垂 の 消防 能力 が 限界 に 達し た ところ 、 新潟 市 から 消火 応援 の ため 、 萬代 橋 を 経由 し て 蒸気ポンプ が 出動 し た 。
新潟 市 は 旧 長岡 藩 、 沼垂 町 は 旧 新発田 藩 と それぞれ 出自 が 異なり 、 江戸 時代 以来 、 信濃川 や 阿賀野川 、 新潟港 や 、 前述 の 北越 鉄道 の 駅 設置 など 、 さまざま な 権益 をめぐって 再三 にわたって 紛争 を 繰り返し て き た が 、 この 初 の 消火 応援 を きっかけ に 歩み寄り を 見せる よう に なっ た 。
1908 年 3 月 8 日 、 新潟 市 古町通 八番 町 の 芸妓 屋 を 火元 と する 火災 が 発生 し た ( 新潟 大火 ・ 若狭 屋 火事 ) 。
萬代 橋 は 既に 新潟 市 の 交通 において 重要 な 橋 と なっ て い た 。
長年 にわたる 不和 が 続い て い た 新潟 市 と 沼垂 町 は 萬代 橋 の 開通 以降 、 人的 ・ 物的 な 交流 が 一層 深まり 、 生活 圏 が 徐々に 一体 化 さ れ て いっ た 。
また 新潟 市 は 、 人口 増加 に 伴う 市街地 拡大 によって 港湾 開発 の 余地 が 無くなり 、 新潟港 の 近代 化 や 陸上 交通 の 拡充 を 進める に は 、 沼垂 側 の 広大 な 土地 を 利する しか なくなっ て い た 。
こうした 潮流 の 中 、 前述 の 消火 応援 を 機 として 、 両 市町 の 一体化 へ 向け た 機運 が 決定的 と なり 、 新潟 市 と 沼垂 町 は 1914 年 4 月 1 日 付 で 合併 。
萬代 橋 の 架橋 は 、 新潟 市 を 都市 として 発展 さ せる 1 つの 大きな きっかけ と なっ た 。
信濃川 は 低湿 な 新潟 平野 に 大きな 水害 を もたらす こと から 、 江戸 時代 から 幾度 も 分水 路 の 開削 が 計画 さ れ て い た が 、 1896 年 ( 明治 29 年 ) の 大 水害 を きっかけ に 実現 さ れる 運び と なっ た 。