そして 通 水 が 開始 さ れる と 、 分水 から 下流 の 信濃川 の 水量 が 著しく 減少 し 、 新潟 市内 の 川幅 は 約 770 m から 、 3 分の 1 の 約 270 m に まで 縮小 さ れ た 。
新潟 市 で も 、 1913 年 6 月 8 日 に 新潟 駅 と 白山 駅 と の 間 で 、 市内 初 の バス 事業 が 開始 さ れ 、 さらに 1922 年 7 月 12 日 に は 新潟 駅 と 白山 神社 と の 間 で 、 初 の 本格 的 な 路線 バス の 営業 が 開始 さ れ た 。
この よう に 新潟 市 で も 大正 期 から 自動車 の 通行 量 が 次第に 増え 、 既に 老朽 化 が 進ん で い た 2 代目 橋梁 は 、 赤 バス など の 自動車 が 通行 する たび 、 橋 の 敷板 が バタバタ と 音 を 立て て 跳ね上がる こと から 「 バッタン 橋 」 と も 揶揄 さ れ 、 また 損傷 も 増加 し 、 たびたび 修繕 を 余儀なく さ れ て い た 。
こうした 中 、 内務省 の 都市 計画 新潟 地方 委員 会 が 1925 年 に 策定 し た 「 新潟 都市 計画 」 に は 、 萬代 橋 を 架け 替え 、 車道 の 中央 部 に 路面 電車 を 通す 計画 が 盛り込ま れ 、 信濃川 の 幅員 縮小 を 機 に 橋 長 を 短縮 し 、 路面 電車 の 軌道 敷設 と 自動車 交通 の 双方 に 対応 できる 永久 橋梁 へ の 架け 替え が 行わ れる こと に なっ た 。
これ は 当時 の 国 の 年間 道路 予算 の 約 350 万 円 に 比し て 約 7 割 、 新潟 県 の 年間 予算 1 , 139 万 円 に 比し て も 約 2 割 に も 上る 巨額 な 規模 で あっ た { Refnest | group =" 注 "| 萬代 橋 と 同 時期 に 建設 さ れ た 旧 新潟 県 庁舎 ( 1932 年 竣工 、 現在 の 新潟 市役所 本庁 舎 本館 兼 中央 区役所 立地 ) の 総 事業 費 は 約 162 万 円 で あっ た 。
建設 は 新潟 県 の 県営 事業 で あっ た が 、 橋 の 全体 設計 は 関東大震災 後 に 隅田川 へ の 架橋 工事 を 多数 手掛け た 内務省 復興 局 に 委託 さ れ 、 橋梁 技術 者 の 福田 武雄 が 実際 の 設計 を 担っ た 。
路面 の 幅員 は 、 当初 の 計画 で は 9 間 ( 16 . 4 m ) と なっ て い た ところ 、 付近 に 軌道 専用 橋梁 の 架橋 を 予定 し て い た 新潟 電鉄 ( 現在 の 新潟交通 の 前身 の 1 つ ) は 、 萬代 橋 の 架橋 計画 に 便乗 する 形 で 方針 を 転換 し 、 自社 計画 を 返上 し た 。
しかし 、 建設 工事 が 行わ れ た 当時 は まだ ケーソン 工法 が 一般 的 で なかっ た ため 、 新潟 市民 は 実情 を 理解 し ない まま に 「 恐ろしい 作業 現場 」 という 誤っ た イメージ を 抱く こと に なっ た 。
敢えて 意匠 ( デザイン ) に 費用 を 投じ た こと で 外観 に 重厚 な 趣 と 風格 を 与え 、 今日 に 至る まで 新潟 市 の シンボル として 親しま れる 橋 と なり 、 さらに 機能 面 において も 鉄筋コンクリート 部 の 表面 を 保護 し 、 河口 部 から の 潮風 による 塩害 や 、 構造 物 の 経年 劣化 を 軽減 する 役目 も 果たし て いる 。
前述 の 路面 電車 の 軌道 敷設 計画 は 、 1933 年 に 県庁 前 駅 ( のち の 白山前 駅 ) まで の 区間 が 開通 し た 、 当時 の 新潟 電鉄 線 ( のち の 新潟交通 電車 線 ) を 東中通 、 柾谷 小路 から 萬代 橋 を 経由 し て 新潟 駅 へ 延伸 する という 計画 で あっ た が 、 費用 等 の 事情 から 実現 し なかっ た 。
新潟 電鉄 の 後身 で ある 新潟 交通 は 、 戦後 は トロリーバス 計画 に 転換 する など し て 、 1958 年 まで 工事 申請 を 更新 し 続け た ものの 、 結局 実現 に は 至ら なかっ た 。
開通 当時 は 、 自動車 の 交通 量 が まだ 少なかっ た こと も あっ て 、 幅 の 広い 堅牢 な コンクリート 橋 で ある こと に 「 新潟 に は 分 不相応 な 、 豪華 過ぎる 橋 」 という 批判 も あっ た と いう 。
1948 年 8 月 23 日 、 現在 の 「 新潟 まつり 」 の 前身 にあたる 「 川開き 」 の 2 日 目 、 信濃川 で は 花火 大会 が 開か れ 、 萬代 橋 周辺 も 大いに 賑わっ た 。
この 事故 以降 、 新潟 まつり で の 花火 大会 の 際 に は 、 萬代 橋 など 信濃川 の 橋梁 上 で 立ち止まっ て の 見物 は 禁止 さ れ て いる 。
この 花火 大会 における 橋梁 歩道 部 の 通行 規制 措置 は 新潟 市 全域 で 取ら れ て おり 、 中 に は 阿賀野川 に 架かる ござれ や 阿賀 橋 と 阿賀野川 大橋 の よう に 、 花火 大会 の 開催 中 に 歩道 部 を 全面 通行 止 と する 例 も ある 。
1950 年代 半ば 、 新潟 市 周辺 で 著しい 地盤 沈下 が 発生 し た 。
急激 な 地盤 沈下 によって 、 市内 中心 部 で は 堀 の 水質 悪化 や 、 港湾 部 の 慢性 的 な 浸水 、 信濃川 河口 の 突堤 の 決壊 、 海岸 沿い の 砂丘 の 崩壊 など といった 深刻 な 被害 が 生じ 、 新潟 市 や 新発田 市 を はじめ と する 周辺 市町村 で 広い 範囲 にわたり 、 1 年間 あたり 平均 20 cm 以上 、 特に 坂井 輪 地区 ( 現在 の 新潟 市 西 区 北部 ) で は 53 . 7 cm の 沈降 ( 1960 年 の 観測 データ { Refnest | group =" 注 "| この 坂井 輪 地区 の 1959 年 から 1960 年 にかけて の 年間 地盤 沈下 量 は 、 観測 値 として 世界 史上 における 最大 値 で ある 。
これ に 基づい て 1959 年 以降 、 新潟 市 周辺 で は 水溶 性 天然 ガス や 一般 地 下水 の 採取 規制 が 順次 実施 さ れ 、 大 規模 な 地盤 沈下 は ほぼ 沈静 化 し た 。
1961 年 4 月 25 日 、 国道 7 号 の 新潟 市 本町通 七番 町 から 新発田 市 猿橋 まで の 延長 24 . 3 km が 、 国 が 直轄 管理 を 行う 指定 区間 に 指定 さ れ た の に 伴い 、 萬代 橋 の 管理 業務 は 新潟 県 から 当時 の 建設省 に 移管 さ れ た 。
1964 年 6 月 16 日 午後 1 時 2 分 ( 日本 時間 ) に 発生 し た 新潟 地震 に際し 、 萬代 橋 は 、 深い 基礎 を 伴っ た 耐震 設計 の 確か さ を 証明 する こと に なっ た 。