天文 9 年 ( 1540 年 ) 、 出雲 国 の 尼子 氏 が 安芸 国 に 侵攻 し て き た 際 に は 、 子 の 福原 貞 俊 を 郡山 城 に 派遣 し 、 自身 は 居城 で ある 鈴 尾城 に 篭城 し 奮戦 し た 。
祖父 は 11 代 当主 ・ 福原 貞 俊 。
吹浦 の 社 について は 、 元禄 16 年 ( 1703 年 ) に 芹沢 貞 運 が 記し た 『 大物 忌 小物 忌 縁起 』 において 、 景 行 天皇 の とき 出羽 国 に 神 が 現れ 、 欽明 天皇 25 年 ( 564 年 ) に 飽海 郡 山上 に 鎮まり 、 大同 元年 ( 806 年 ) に 吹浦 村 に 遷座 し た とある 記述 が あり 、 現在 の 社 伝 は この 吹浦 の 創建 について の 伝承 を 踏襲 し て いる と さ れる 。
『 日本 三 代 実録 』 貞 観 13 年 ( 871 年 ) 5 月 16 日 の 条 に ある 出羽 国司 の 報告 から 、 飽海 郡 山上 に 大 物忌 神社 が あっ た こと が 確認 できる が 、 大物 忌 神社 の 鎮座 地 は 飽海 郡 に ある 山の上 と ある のみ で 、 上記 の 吹浦 について の 言及 は ない 。
その後 、 貞 観 6 年 ( 864 年 ) 、 慈覚 大師 ( 円仁 ) が 鳥海山 から 五 色 の 光 が 放た れ て いる の に 気づい て 、 登ろ う と する と 、 青 鬼 と 赤 鬼 が 妨害 し た ので 、 火 生 三昧 の 法 で 対抗 し た ところ 、 鬼 は 観念 し て 、 今後 は 鳩 般恭 王 として 大師 に従い 仏法 を 守護 する と 誓っ た と いう 。
永 正 7 年 ( 1510 年 ) の 『 羽黒山 年代 記 』 で は 、 鳥海山 は 飽海 嶽 と 呼ば れ て い た として 、 欽明 天皇 7 年 ( 546 年 ) に 神 が 出現 し た 後 、 貞 観 2 年 ( 860 年 ) に 、 慈覚 大師 ( 円仁 ) が 青 鬼 と 赤 鬼 を 退治 し た 後 、 山 の 外観 が 龍 に 似 て いる として 、 龍 の 頭部 に みえる 箇所 ( 龍 頭 ) に 権現堂 を 建て 、 寺号 を 龍 頭 寺 ( りゅうと うじ ) として 、 さらに 、 鳥の海 に 因ん で 山号 を 鳥海山 と し た と さ れ て おり 、 卵生 神話 の 記載 は ない ものの 、 上記 の 「 大 日本 国大 物忌 大明神 縁 」 と 共通 する 内容 と なっ て いる 。
なお 、 現在 の 龍 頭 寺 は 大同 2 年 ( 807 年 ) に 慈照 上人 が 開い た と さ れ て おり 、 上述 の 空海 の 帰国 の 年 に 合わせ られ て いる ほか 、 慈照 上人 の 実在 が 確認 さ れ て おら ず 、 慈覚 大師 ( 円仁 ) の 錯誤 で ある 可能 性 も ある が 、 『 羽黒山 年代 記 』 の 貞 観 2 年 に 開か れ た と する 記述 と は 年代 が 離れ て いる 。
前述 の 『 日本 三 代 実録 』 貞 観 13 年 ( 871 年 ) 5 月 16 日 の 条 に ある 出羽 国司 から の 報告 に は 、 鳥海山 の 噴火 について 、 「 出羽 の 名神 に 祈祷 し た が 後 の 報 祭 を 怠り 、 また 墓 の 骸骨 が 山水 を 汚し て いる ため 怒り を 発し て 山 が 焼け 、 この 様 な 災 異 が 起こっ た の だ 」 等 の 記述 が あり 、 鳥海山 噴火 が 兵乱 の 前兆 で ある と 信じ られ て い た こと を 覗 わせ て いる 、 と 『 名勝 鳥海山 』 で は 述べ て いる 。
六 国史 に よれ ば 斉 衡 3 年 ( 856 年 ) から 貞 観 12 年 ( 870 年 ) の 間 に 出羽 国 で は 定額 寺 が 6 ヶ所 指定 さ れ 、 また 『 日本 三 代 実録 』 仁和 元年 ( 885 年 ) 11 月 21 日 の 条 で は 飽海 郡 に 神宮寺 が あっ た と 記し て いる こと から 、 出羽 における 神仏 習合 は この 時期 に 始まっ た と 『 名勝 鳥海山 』 で は 推測 し て いる 。
ただし 弟 の 忠 隆 に 1186 石 の 所領 が 与え られ 、 宗 英 、 貞 長 、 忠義 、 忠 豊 、 忠 賢 、 忠 孚 、 忠寛 、 忠 昶 と 旗本 として 続き 、 明治維新 に 至る 。
はじめ 円融天皇 の 中宮 藤原 媓子 に 女房 として 仕え 、 のち 三 条 天皇 ( 居 貞 親王 ) の 東宮 時代 に 下級 の 女房 で ある 女 蔵人 ( に ょくろうど ) として 仕え 、 東宮 左近 と も 称さ れ た 。
康 保 4 年 ( 967 年 ) 侍従 に 任 ぜ られ た 後 、 右 兵衛 佐 ・ 右 近衛 少将 ・ 近江 介 ・ 民 部 権 大輔 を 経 て 、 天 禄 4 年 ( 973 年 ) 皇太子 ・ 師 貞 親王 ( のち 花山 天皇 ) の 春宮 権 亮 に 任 ぜ られる 。
坂 氏 は 断絶 の 危機 を 迎え た が 、 志 道広 良 の 子 ・ 志 道元 貞 が 、 元就 の 命 で 坂 氏 の 名跡 を 継い で 存続 し た 。
元就 は 家臣 の 福原 貞 俊 に 命じ 、 隆 世 が 切腹 、 開城 すれ ば 義長 を 助命 する という 条件 で 降伏 を 勧告 さ せ た 。
坂 氏 の 嫡流 は 志 道広 良 の 子 志 道元 貞 が 継承 。
江戸 期 に 坂 氏 の 一族 は 、 元 貞 と 元 祐 の 系統 など 大 組 に 二 家 、 無給 通 に 二 家 、 萩 藩 の 重臣 の 家臣 や 徳山 藩 に 庶子 家 が ある 。
貞 応 三 年 ( 1224 年 ) の 「 延暦寺 政所 下 文案 」 で は 願 西 聖人 の 建立 と し 、 寺 域 は 東西 16 町 南北 12 町 に 及ん だ と いう 。
貞 応 2 年 ( 1223 年 ) に は 国 役 を 免除 さ れ 、 南北 朝 時代 に 三重 塔 、 室町 後期 に は 文殊 堂 の 建立 が なっ た 。
平 貞文 ( たい ら の さだ ふみ 、 貞 観 14 年 ( 872 年 ) ? - 延長 元年 9 月 27 日 ( 923 年 11 月 13 日 ) ) は 、 平安 時代 中期 の 貴族 ・ 歌人 。
貞 観 16 年 ( 874 年 ) 父 ・ 好 風 とともに 平 姓 を 賜 与 さ れ 臣籍 に 下る 。