( ただし 、 重貞 と 名乗っ た の は 信 貞 と も 、 信 真 や 信 定 は 信 貞 の 子 の 名 と も いわ れ 、 はっきり し ない ) 。
信 貞 も 父 と共に 信玄 に 仕え て 、 上野 攻略 戦 を 始め 、 三増峠 の 戦い や 三 方 ヶ 原 の 戦い 等 の 主要 な 合戦 に 参加 し て 武功 を 挙げ て いる 。
なお 信 貞 の 小幡 氏 は 、 小畠 虎 盛 ( 小幡 虎 盛 ) ・ 昌 盛 ・ 景憲 など の 甲州 小幡 氏 と は 別 系統 で ある ( 甲州 小幡 氏 は 武田 信玄 の 命 で 改姓 し て 「 小幡 」 姓 と なっ た ) 。
しかし 、 同年 に 信長 が 本能寺 の 変 で 横死 、 それ を 受け 北条 氏直 が 滝川 一益 を 神流川 の 戦い で 破り 織田 氏 の 勢力 を 上野 から 駆逐 し た ため 、 信 貞 は 氏直 に 降伏 し て 北条 氏 の 家臣 と なっ た 。
一説 で は 、 父 の 憲 重 は 大 永年 間 に 死去 し 、 父 の 憲 重 の 事績 と さ れる 事柄 は 信 貞 の こと だ と も 言わ れ て いる 。
長篠 の 戦い で 戦死 し た と も いわ れる こと が ある が 、 戦死 し た の は 信 貞 の 弟 と さ れ て いる 。
信玄 が 長野 氏 を 滅ぼし た 後 、 信 貞 に 「 長野 家 の 者 で ある お前 の 本妻 を 離別 し 、 武田 の 譜代 の 家 と 新た に 縁付い て もらい たい 。 」 と 言い 出し た 。
これ に対して 信 貞 は 「 もし これ が 、 長野 家 の 没落 以前 の 事 なら 、 お 受け し て い た でしょ う 。
信玄 は 信 貞 の 言葉 に 深く 感じ入り 、 「 お前 の その 見事 な 意地 に 、 次 の 戦 、 先手 を 申し付ける ぞ 。 」 と 言い渡し 、 さらに 甥 の 武田 信 豊 を 信 貞 の 婿 に し た と いう 。
弘 化 4 年 ( 1847 年 ) 2 月 26 日 、 第 7 代 柏原 藩主 ・ 織田 信 貞 の 末期 養子 として 家督 を 相続 する 。
なお 横瀬 氏 は 新田 義宗 の 三男 と する 新田 貞 氏 の 子孫 と 称し て いる 。
藤原 家 宗 ( ふじ わら の いえ むね 、 弘 仁 8 年 ( 817 年 ) - 貞 観 19 年 2 月 10 日 ( 877 年 2 月 26 日 ) ) は 、 平安 時代 前期 の 公卿 。
天 安 2 年 ( 858 年 ) 清和 天皇 の 即位 に 伴っ て 従 五 位 上 に 叙せ られる と 、 貞 観 3 年 ( 861 年 ) 右 中 弁 、 貞 観 5 年 ( 863 年 ) 正 五 位 下 ・ 左 中 弁 、 貞 観 8 年 ( 866 年 ) 従 四 位 下 、 貞 観 11 年 ( 868 年 ) 従 四 位 上 ・ 蔵人 頭 、 貞 観 12 年 ( 870 年 ) 右 大 弁 と 、 清和 朝 に 入る と 弁 官 を 務め ながら 順調 に 昇進 を 果たす 。
貞 観 13 年 ( 871 年 ) に は 参議 に 任 ぜ られ 公卿 に 列 し た 。
清和 朝 後半 は 議 政官 として 左右 大 弁 を 兼帯 し 、 貞 観 17 年 ( 875 年 ) に は 正 四 位 下 に 叙 さ れ て いる 。
陽成 朝 の 貞 観 19 年 ( 877 年 ) 正月 に 従 三 位 に 至る が 、 同年 2 月 10 日 薨去 。
1232 年 ( 貞 永 元年 ) に 出家 し 、 1234 年 ( 文 暦 元年 ) 11 月 一身 阿闍梨 と なる 。
創建 の 由緒 は 不詳 で ある が 、 貞 観 4 年 ( 862 年 ) に 社殿 を 修造 し た 記録 が ある 。
豊臣 秀吉 は 、 伏見 城 築城 の 際 に 当社 を 城内 に 移し 、 鬼門 の 守護神 と し た ( 現在 でも 古 御 香 宮 として 残っ て おり 、 また 伏見 宮 貞 成 親王 に 関係 が 深かっ た こと も あり 、 境内 は 陵墓 参考 地 として 指定 さ れ て いる ) 。
優れ た 歌人 で あり 、 同族 の 藤原 貞 幹 や 番頭 ・ 土肥 経 平 や 塙 保己一 ら に 和歌 を 伝授 し た 。