その ため 、 家督 を 再度 、 貞 康 が 継い だ が 浪人 の 身 で あっ た 。
文禄・慶長の役 の ただ なか の 文 禄 2 年 ( 1593 年 ) に 次男 の 稲沢 家 貞 が 増田 長 盛 に 五 百 石 で 召抱え られる と 、 貞 康 は 再び 家督 を 譲り 、 隠居 し た 。
文 禄 4 年 ( 1595 年 ) に 増田 長 盛 が 大和郡山 城主 と なり 、 加増 を 受ける と 家 貞 も 加増 を 受け た 。
しかし 、 慶長 5 年 ( 1600 年 ) の 伏見 城 の 戦い で 西 軍 に 味方 し た 増田 長 盛 の 隊 に 属し た 家 貞 は 討ち死に し た 。
その ため 、 家 貞 の 長男 、 頼 貞 が 家督 を 継い だ が 、 関ヶ原 の 戦い で 西 軍 が 敗北 し 、 増田 家 は 改易 と なっ た ため 流浪 する こと と なる 。
慶長 6 年 ( 1601 年 ) 、 頼 貞 の 祖父 の 貞 康 は 旧知 の 速水 守 久 に 客将 として 仕える こと で 家名 を 存続 さ せ た 。
また 、 頼 貞 も 慶長 7 年 ( 1602 年 ) に 速水 守 久 に 仕え た 。
稲 沢 貞 康 は 慶長 9 年 ( 1604 年 ) に 出家 し て 道 叡 と 称し た 。
慶長 19 年 ( 1614 年 ) 、 大坂 冬 の 陣 が 起こる と 、 道 叡 、 稲 沢 頼 貞 は 速水 守 久 が 秀頼 に 近侍 する こと が 多い こと から 、 部隊 の 実務 を 他 の 守 久 の 家臣 と とる こと に なっ た 。
道 叡 、 頼 貞 は それら の 戦い に 参加 し た 。
その 際 、 頼 貞 は 後藤 基次 の 死 を 知り 、 豊臣 家 の 将来 を 悟り 、 幼少 の 長男 で 後 の 稲 沢 貞 長 を 伊王野 氏 の 家臣 で あっ た 稲沢 将監 に 預け て 落ち延び させ た 。
それら の 乱戦 の なか で 道 叡 、 頼 貞 は 討ち死に し た 。
近江 国 犬上 郡 彦根 ( 現 ・ 彦根 市 ) の 住人 ・ 犬上 永 保 は 、 祖先 の 犬上 永 勝 が 速水 円心 から 学ん だ と 伝え られる 家伝 の 組討 術 を 、 叔父 の 棚橋 良 貞 に 学ん だ 。
その後 、 京都 で 滝野 遊軒 ( 滝野 貞 高 ) から 起 倒流 柔術 を 学び 、 扱心 流 を 開い た 。
吉治 は 豊臣 方 から 100 名 の 兵士 を 担当 する 隊長 に 任命 さ れ た という ( 『 土屋 知 貞 私記 』 ) 。
また 大 坂 の 役 に 参加 し た 土屋 知 貞 は 吉治 の 年齢 を 「 50 歳 計り 」 と 記録 し て いる ( 『 土屋 知 貞 私記 』 ) 。
看 聞 日記 ( かん もん に っ き ) は 、 伏見 宮 貞 成 親王 ( 後 崇 光 院 、 1372 年 - 1456 年 ) の 日記 。
「 看 聞 日記 」 は 宮内庁 書 陵 部 所蔵 の 貞 成 親王 自筆 の 原本 の 題名 で 、 一般 に は 『 看 聞御 記 』 ( かん もん ぎょ き ) と も 呼ば れる 。
貞 成 親王 は 伏見 宮 3 代 で 、 後 花園天皇 の 実父 にあたる 人物 で ある 。
将軍 足利 義教 時代 の 幕政 や 世相 、 貞 成 親王 の 身辺 など について 記さ れ て おり 、 政治 史 だけ で なく 文化 史 において も 注目 さ れる 。