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初め は 今川 義範 ( よしのり 、 「 義 」 の 字 は 足利 将軍家 ( 室町 幕府 第 2 代 将軍 ・ 足利 義詮 か ) より 偏 諱 を 受け た もの と み られる ) と 名乗り 、 のち に 父 ・ 世 の 1 字 により 臣 に 改名 する が 、 本 項 で は 後者 に 統一 する 。

氏家 は 遺言 で 従弟 にあたる 臣 に 跡目 を 求め て い た こと で 、 当初 は 臣 が 駿河 守護 職 と 駿河 今川 氏 の 家督 を 継ぐ と いわ れ て い た 。

応安 3 年 / 建徳 元年 ( 1370 年 ) 、 父 が 九州 探題 に 任命 さ れる と 臣 も 出陣 、 応安 4 年 / 建徳 2 年 ( 1371 年 ) 7 月 に は 田原 氏 能 を 従え て 豊後 高崎 山城 に 入城 、 翌 応安 5 年 / 文中 元年 ( 1372 年 ) 正月 まで 菊池 武政 と 戦っ た 。

今川 相 ( いま が わ さだ すけ 、 生 没年 不詳 ) は 、 室町 時代 初期 から 中期 にかけて の 武将 。

父 ・ 今川 臣 から 家督 を 継承 し 、 東海 において 最大 規模 の 勢力 を 持ち 、 全盛期 を 築い た 。

今川 相 の 子 。

子 に 延 、 足利 義政 側室 。

官位 は 祖父 臣 、 父 に 続い て 伊予 守 。

混乱 の 中 、 範 将 の 死 を うけ 後継 は 子 と 伝え られる 今川 延 が 継い だ 。

今川 延 ( いま が わ さだ のぶ ) は 、 室町 時代 中期 の 武将 。

堀越 延 ( ほり こし さだ のぶ ) と も 。

一時 、 幕府 に 所領 を 没収 さ れ た が 、 延 による 存続 が 許さ れ た 。

延 の 在任 時期 は 、 遠江 領 内 で の 一揆 の 頻発 、 狩野 氏 と の 合戦 、 斯波 氏 と の 対立 、 京 で は 応仁 の 乱 が 拡がる など 、 常に 不安 要素 を 抱え て の 運営 で あっ た 。

延 死去 の 同年 、 今川 義忠 は 狩野 氏 を 破る など 、 たびたび 遠江 へ 侵攻 する 。

延 の 子 に 一秀 と 基 が おり 、 前者 は 瀬名 に 移っ た こと から 瀬名 氏 を 称し 、 後者 は 堀越 に 居 を 構え た ため 堀越 氏 を 興し た 。

延 の 父親 を 先々 代 今川 相 と する ( 延 を 範 将 の 弟 と する ) 説 も ある 。

父子 相続 の まま で は 延 の 後裔 たち ( 関口 親 永 や 築山殿 など ) が 、 宗家 ・ 駿河 今川 氏 の 当主 と 生存 年代 が 噛み合わ なく なる 事 が 挙げ られる 。

子 に 利 親 、 又四郎 、 彦四郎 、 斎藤 利 茂 ? ・ 長井 利隆 ?、 朝倉 景 室 、 京極 高清 室 。

延徳 3 年 ( 1491 年 ) 4 月 20 日 、 妙 純 の 娘 ( 13 歳 ) は 氏 景 の 子 ・ 朝倉 景 の 元 へ 嫁ぎ 、 朝倉 氏 と の 連携 は 益々 強固 な もの と なっ た 。

明 応 5 年 ( 1496 年 ) 5 月 、 妙 純 が 尾張 の 織田 寛 広 支援 の ため に 出陣 中 に 、 利光 は 近江 の 六角 高頼 、 尾張 の 織田 寛 村 、 伊勢 の 梅戸 実 ら の 援助 を 得 て 、 4000 の 兵 で 伊勢 、 尾張 を 通り 、 成 頼 の 居る 城田寺 城 に 入っ た 。