( 彼 の 兄 に も 良弘 という 人物 が 存在 する ) 平 貞 能 ( たい ら の さだ よし ) は 平安 時代 末期 の 武将 。
同じ 有力 家人 の 伊藤 忠清 が 重盛 の 嫡男 ・ 平維盛 の 乳 父 で あっ た の に対して 、 貞 能 は 次男 ・ 平資盛 の 補佐 役 を 任さ れ た 。
忠清 は 「 坂東 八 カ国 の 侍 の 別当 」 として 東国 に 平 氏 の 勢力 を 扶植 する 役割 を 担っ た が 、 貞 能 は 筑前 守 ・ 肥後守 を 歴任 する など 九州 方面 で の 活動 が 顕著 で ある 。
12 月 に 資 盛 が 大 将軍 として 近江 攻防 に 発向 する と 、 貞 能 も 侍大将 として 付き従っ た 。
8 月 、 貞 能 は 反乱 鎮圧 の ため に 一軍 を 率い て 出発 する が 、 早く も 備中 国 で 兵 粮 の 欠乏 に 直面 し た ( 『 玉 葉 』 9 月 6 日 条 ) 。
寿 永 2 年 ( 1183 年 ) 6 月 、 貞 能 は 1 , 000 余 騎 の 軍勢 を 率い て 帰還 する が 、 7 月 に は 木曾 義仲 軍 の 大 攻勢 という 局面 に 遭遇 する 。
貞 能 は 資 盛 に 付き従い 軍勢 を 率い て 宇治田原 に 向かっ た が 、 この 出動 は 宗 盛 の 命令 で は なく 後 白河 法皇 の 命令 による もの だっ た 。
宗 盛 は 都落ち の 方針 を 決定 する が 、 貞 能 は 賛同 せ ず 都 で の 決戦 を 主張 し た 。
九州 の 情勢 を 実際 に 見 て い た 貞 能 は 、 西国 で の 勢力 回復 が 困難 と 認識 し て い た 可能 性 も ある 。
25 日 の 夕方 、 資 盛 ・ 貞 能 は 京 に 戻り 、 蓮華 王 院 に 入っ た 。
『 平家 物語 』 一門 都 落 の 章 段 に よれ ば 、 貞 能 は 逃げ 去っ た 一門 の 有様 を 嘆き 、 源 氏 方 に 蹂躙 さ れ ぬ よう に 重盛 の 墓 を 掘り起こし て 遺骨 を 高野山 へ 送り 、 辺り の 土 を 加茂川 へ 流し て 京 を 退去 し た と いう 。
惟栄 が 重盛 の 家人 だっ た こと から 資 盛 ・ 貞 能 が 説得 に 赴く が 、 交渉 は 失敗 に 終わる 。
平 氏 は 10 月 に 九州 の 地 を 追わ れる が 、 貞 能 は 出家 し て 九州 に 留まり 平 氏 本隊 から 離脱 し た ( 『 玉 葉 』 閏 10 月 2 日 条 ) 。
平 氏 滅亡 後 の 元 暦 2 年 ( 1185 年 ) 6 月 、 貞 能 は 縁者 の 宇都宮 朝 綱 を 頼っ て 鎌倉 方 に 投降 する 。
朝 綱 は 自ら が 平 氏 の 家人 として 在京 し て い た 際 、 貞 能 の 配慮 で 東国 に 戻る こと が でき た 恩義 から 源 頼朝 に 助命 を 嘆願 し た ( 『 吾妻 鏡 』 7 月 7 日 条 ) 。
この 嘆願 は 認め られ 、 貞 能 の 身柄 は 朝 綱 に 預け られ た 。
その後 の 消息 は 不明 だ が 、 北関東 に 那須塩原 市 の 妙 雲寺 、 芳賀 郡 益子 町 の 安善寺 、 東茨城 郡 城 里 町 の 小松寺 、 そして 南東 北 でも 仙台 市 の 定義 如来 など 貞 能 と 重盛 の 伝承 を もつ 寺院 が 多く 残さ れ て いる の は 、 貞 能 の 由緒 による もの で ある 。
伏見 宮 貞 建 親王 ( ふし み のみ や さだ たけし ん のう 、 元禄 13 年 12 月 21 日 ( 1701 年 1 月 29 日 ) - 宝 暦 4 年 7 月 21 日 ( 1754 年 9 月 7 日 ) ) は 、 江戸 時代 中期 の 皇族 。
宝永 5 年 ( 1708 年 ) 東山 天皇 の 猶子 と なり 、 翌 宝永 6 年 ( 1709 年 ) 5 月 親王 宣下 を 蒙り 、 貞 建 と 命名 さ れる 。
念仏宗 に 帰依 し 、 親鸞 上人 の 弟子 と なり 信 願 房 教 念 と 号し 、 貞 応 2 年 ( 1223 年 ) に 慈願 寺 を 創設 し た 。