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義持 が 有力 守護 大名 の 子息 ( 細川 持 元 ・ 畠山 持国 ・ 山名 持 豊 ) と 伏見 で 遊ん だ 際 に 同行 し た 義持 近習 の 中 に 赤松 越 州 ( 持 ) ・ 富樫 兵部 大輔 ( 満 成 ) ら の 名前 が 見 られる ( 『 看 聞御 記 』 応永 23 年 10 月 7 日 条 ) 。

また 、 『 満 済 准 后 日記 』 応永 30 年 6 月 17 日 条 に は 義持 の 「 御供 近習 」 として 赤松 越後 守 ( 持 ) の 名前 が 挙げ られ て いる 。

は 義持 の 側近 として 主 に 寺社 と の 交渉 など を 担当 し た 。

こうした 奉書 は 本来 は 奉行 衆 の 役目 で あっ た が 、 持 は 義持 側近 として その 業務 を 行っ た こと が 知ら れ て いる 。

更に 『 満 済 准 后 日記 』 に は 持 が 満 済 ら 祈祷 僧 の 祈祷 巻数 ( 祈祷 の 回数 ・ 経典 数 の 記録 ) を 管理 し て 祈祷 の 依頼 者 で ある 義持 に 報告 し て い た こと を 示す 記事 が 頻出 する 。

また 、 義持 の 評定 に も 参加 し て い た 持 の 意見 が 採用 さ れ た こと も 確認 できる 。

応永 34 年 ( 1427 年 ) 、 理由 は 定か で は ない が 足利 義持 が 赤松 満祐 を 追放 し て 寵臣 の 持 に 3 ヶ国 の 守護 職 を 与えよ う と する 噂 が 広がっ た 。

義持 が 何 の 咎 も ない 満祐 を 敵視 し た の は 義持 の 近習 に 春日部 家 の 赤松 持 が いる ため だ と 判断 し た 幕臣 は 、 政治 的 に 解決 する ため に 、 持 を 処分 する こと に し た 。

に 課せ られ た 罪状 は 「 義持 の 妻女 と の 密通 」 で あり 、 義持 が 絶対 的 な 信任 を 置く 高橋 殿 ( 足利 義満 側室 ) の 密書 による 告発 という 形 を 取ら せ た の で ある 。

これ によって 持 は 自害 に 追い込ま れ た の で ある 。

なお 、 春日部 家 は 持 の 甥 に なる 村 が 継ぐ こと に なっ た 。

の 嫡男 家 は 赤松 姓 から 田原 姓 へ と 変え て 京 を 追放 さ れ 、 播磨 に 逃れ た 。

赤松 村 ( あか まつ さだ むら 、 明徳 4 年 ( 1393 年 ) - 文 安 4 年 ( 1447 年 ) ? ) は 、 室町 時代 の 播磨 ・ 美作 ・ 備前 の 守護 職 で ある 赤松 氏 の 一族 。

父 の 赤松 満 ( みつ さ だ ) は 3 代 将軍 足利 義満 、 満 の 従兄弟 にあたる 赤松 持 は 4 代 将軍 足利 義持 、 子 の 赤松 教 ( のり さ だ ) は 6 代 将軍 足利 義教 から 、 それぞれ 偏 諱 を 賜っ て いる 。

応永 34 年 ( 1427 年 ) に 本家 当主 の 赤松 満祐 が 出奔 する 事件 が おこり 、 その 政治 的 解決 の ため に 当時 の 赤松 春日部 家 の 当主 で ある 赤松 持 は 自害 に 追い込ま れ た 。

その あと を 継い だ の が 持 の 従甥 にあたる 赤松 村 だっ た 。

と 同様 に 将軍 の 近習 と なっ た 村 は 、 妹 が 六 代 将軍 足利 義教 の 側室 と なっ て 男子 を 出産 し た こと で 、 義教 に 重用 さ れる よう に なっ て いっ た 。

それら を 背景 に 「 播磨 の 守護 を 満祐 から 村 に 変更 する 」 という 応永 34 年 と 同じ よう な 噂 が 囁か れ た こと が 嘉吉 の 乱 の 発端 に の 一因 に なっ た 。

嘉吉 元年 ( 1441 年 ) 6 月 24 日 に 将軍 義教 が 西洞院 に ある 赤松 邸 で 殺害 さ れ た 際 、 村 も 幕臣 たち とともに 参加 し て い た の だ が 、 満祐 の 嫡子 ・ 赤松 教 康 が 足利 義教 を 襲撃 する と 、 その 場 から 逃げ出し た 。

後 に 幕府 軍 が 満祐 を 討伐 する 際 、 村 は 細川 持 常 が 指揮 する 幕府 大手 軍 に 加わっ た の だ が 、 目 ぼ しい 活躍 は なかっ た 。