後 に リシュリュー 枢機卿 と なる アルマン・ジャン・デュ・プレシー・ド・リシュリュー は 1585 年 9 月 9 日 に フランス 西部 の 下級 貴族 夫妻 の 5 人 の 子供 の 4 番目 、 三男 として パリ で 生まれ た 。
リシュリュー と の 親交 と 彼 が 常に 灰色 の ローブ を 身 に 着け て い た こと により 、 ジョセフ 神父 は “ l ' Éminence grise ” ( 灰色 の 枢機卿 黒幕 ) の 異名 を 持つ こと に なる 。
翌 1622 年 、 リシュリュー の 国務 会議 入り を 母后 マリー から 推薦 さ れ た ルイ 13 世 は 彼 を 悪魔 の よう に 憎ん で いる と 拒絶 し て い た が 、 国王 は リシュリュー を 枢機卿 に 任命 し 、 同年 4 月 19 日 に ローマ 教皇 グレゴリウス 15 世 は 彼 を 叙 階 し た 。
リシュリュー 枢機卿 は 「 私 の 第 一 の 目標 は 国王 の 尊厳 。
恐るべき 枢機卿 は 人 を 支配 する より も 粉砕 する 」 と 評さ れ た 。
だが 、 この 紛争 は 1641 年 に 教皇 が リシュリュー の 腹心 で ある ジュール ・ マザラン を 枢機卿 に 叙 階 する こと によって 大いに 緩和 さ れ た 。
担架 に 乗っ て 戦場 で 軍隊 の 指揮 を 執っ て い た リシュリュー だ が 、 死期 が 近い と 悟っ た 彼 は 最も 信頼 する 腹心 の マザラン 枢機卿 を 後継 者 に 指名 し た 。
僅か 4 歳 の ルイ 14 世 が 即位 し 、 リシュリュー の 後 を 継い だ マザラン 枢機卿 が 幼君 の 補佐 を する 宰相 と なる 。
1605 年 に 一家 は ローマ に 戻り 、 ピエトロ は 枢機卿 シピオーネ・ボルゲーゼ の 保護 を 得 て 、 息子 ジャン・ロレンツォ の 早熟 な 才能 を 彼 に 示す 機会 を 得 た の で ある 。
シピオーネ・ボルゲーゼ 枢機卿 の ため に 制作 さ れ た 4 体 の 彫刻 群 、 つまり ≪ アイネイアース と アンキーセース ≫( 1618 - 19 )、 ≪ プロセルピーナ の 略奪 ≫( 1621 - 22 )、≪ ダヴィデ ≫( 1623 - 24 )、≪ アポロ と ダフネ ≫( 1624 - 25 ) によって 、 ベルニーニ は 即座 に 名声 を 手 に し た 。
ボローニャ 大学 で 法学 を 学び 、 伯父 に 引き立て られる 形 で 司教 、 枢機卿 、 教皇 庁 財務 部 副 院長 と なっ た 。
ロドリーゴ・ボルジア 枢機卿 、 アスカニオ・スフォルツァ 枢機卿 、 そして ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ 枢機卿 ( 後 の 教皇 ユリウス 2 世 ) で ある 。
当初 は イタリア 人 の 支持 を 得 て い た ローヴェレ が 有利 と 見 られ て い た が 、 ロドリーゴ は アスカニオ・スフォルツァ を 含む 多く の 枢機卿 を 買収 する 事 に 成功 し た 。
ロドリーゴ の 事 を 熟知 し 、 その 危険 性 を 警告 し て い た 数 人 の 枢機卿 を 除け ば 、 多く の 関係 者 にとって ロドリーゴ が 教皇 位 に つく 事 が どの よう な 結果 を もたらす か は 予測 でき なかっ た 。
他 の 枢機卿 に は 不評 だっ た が 、 財政 は 好転 し た 。
従兄弟 の ジョバンニ は 枢機卿 に あげ られ た 。
外国 出身 で イタリア に 基盤 を 持っ て い なかっ た と 言う 事情 も ある が 、 最終 的 に は ボルジア 家 だけ で 5 人 の 枢機卿 が 任命 さ れ 、 多く の 知人 友人 も 取り立て た 。
ここ において 教皇 は かつて の ライバル 、 ローヴェレ 枢機卿 の 激しい 反発 を 受ける 事 に なる 。
アレクサンデル 6 世 は 教皇 庁 を 完全 に 掌握 する 為 、 自分 の 息 の かかっ た 12 人 の 新 枢機卿 を 任命 し た 。
この 教皇 自身 の 息子 の 枢機卿 任命 は 教皇 庁 を ゆるがす スキャンダル と なっ た が 、 文句 の つけ よう の ない 人物 も 幾 人 か 登用 さ れ 、 列強 に ポスト を 分配 する 等 の 工夫 によって 非難 を うまく かわし た 。