これ を 受け て 12 月 に は 東 軍 方 の 少 弐教 頼 と 宗 盛 貞 が 政弘 の 不在 を 突い て 筑前 に 侵攻 する が 、 撃退 さ れ て いる 。
政弘 は 、 益田 貞 兼 を 急遽 帰国 さ せ 、 留守 を 守っ て い た 重臣 ・ 陶 弘 護 の 反乱 鎮圧 に 加わら せ た 。
文正 元年 ( 1466 年 ) に は 勝元 と 共謀 し て 、 政所 執事 の 伊勢 貞 親 や 季 瓊真 蘂 ら を 失脚 さ せる 文正 の 政変 を 行う 。
この 時 、 赤松 家 の 所領 は 播磨 ・ 備前 ・ 美作 の 3 か国 で あり 、 満祐 は 当然 3 か国 の 安堵 を 望ん だ が 、 10 月 26 日 に 義持 が 出し た 命令 は 「 播磨 は 料 国 ( 幕府 直轄 領 ) と し 、 一族 の 赤松 持 貞 を 代官 に 任命 し て 預け 置く 」 と し た 。
義持 は 満祐 の 行為 に 激怒 し 、 備前 と 美作 も 没収 し て 赤松 満 弘 ( 赤松 光範 の 子 ) と 赤松 貞 村 に 与える 内示 を 与え 、 さらに 山名 氏 や 一色 氏 に対して 赤松 討伐 を 命じる まで に なっ た 。
この よう に 赤松 討伐 が 実行 さ れ ない 内 に 、 11 月 11 日 に なっ て 赤松 持 貞 が 高橋 殿 ( 義満 の 愛妾 ) と 密通 し て い た という 直訴 が 行なわ れ た 。
持 貞 は 弁明 し 、 満 済 に 取り 成し を 依頼 し た 。
それでも 満 済 は 畠山 満家 の 協力 を 得 て 持 貞 を 高野山 に 追放 しよ う と 画策 する など 、 義持 の 意向 を 無視 し た 行動 を とっ た が 、 義持 の 命令 が 強行 だっ た ため に その 工作 は 間に合わ ず 、 持 貞 は 切腹 し た 。
ただし 義持 は 調整 型 として の 手法 が 目立つ が 、 富樫 満 成 や 赤松 持 貞 の 両 事件 の よう に 側近 を 新た な 将軍 権力 層 として 取り立てる 事 で 守護 大名 に 対抗 しよ う と する など 、 専制 的 部分 が 全く なかっ た わけ で は ない 。
平安 時代 に は 836 年 ( 承 和 3 年 ) の 正 五 位 下 勲 四 等 に 始まっ て 869 年 ( 貞 観 11 年 ) の 正 二 位 勲 四 等 の 神階 奉 授 の 記録 が ある ほか 、 『 延喜 式 神 名 帳 』 に 記載 さ れ て いる 名神 大社 「 下野 国 河内 郡 二荒 山神 社 」 の 記載 が ある 。
戦国 時代 に は 宗像 大社 の 大 宮司 ・ 宗像 氏 貞 が 有力 な 大名 として 蔦 ヶ 嶽 城 ( 現 ・ 城山 ) に 城 を 構え 、 遠賀 ・ 鞍手 を 含む 全 宗像 を 他 の 大名 ( 立花 道 雪 や 大友 氏 など ) の 侵略 から 護っ た 。
平家 滅亡 後 も 源 氏 を はじめ として 時 の 権力 者 の 崇敬 を 受ける が 、 建 永 2 年 ( 1207 年 ) と 貞 応 2 年 ( 1223 年 ) の 2 度 の 火災 で 建物 の 全て を 焼失 し て いる 。
当時 の 社殿 は 承 元 元年 ( 1207 年 ) と 貞 応 2 年 ( 1223 年 ) に 火災 に 遭い 、 現存 する 社殿 の 主要 部 は 貞 応 の 火災 後 、 仁 治 2 年 ( 1241 年 ) に 再建 さ れ た もの で ある 。
三 代 格式 ( さん だい きゃく しき ) と は 、 平安 時代 に 編纂 さ れ た 弘 仁 格式 、 貞 観 格式 、 延喜 格式 の 三つ の 格式 ( 律令 の 補助 法令 ) の 総称 で ある 。
弘 仁 ・ 貞 観 ・ 延喜 と は 、 それぞれ の 格式 が 編纂 さ れ た 年代 の 元号 で ある が 、 実際 に 完成 し 施行 さ れ た 年代 の 元号 と はずれ が 生じる こと も ある 。
『 弘 仁 式 』 『 貞 観 式 』 と その後 の 式 を 取捨 編集 し 、 927 年 ( 延長 5 年 ) に 完成 し た 。
また 、 永 禄 の 変 の 直前 に 義輝 に 叛旗 を 翻し た として 討た れ た 政所 頭 人 ( 執事 ) ・ 伊勢 貞 孝 の 孫 で ある 伊勢 虎 福丸 ( 後 の 伊勢 貞 為 ) の 帰参 を 許し て 、 伊勢 氏 宗家 の 再興 を 認め て いる 。
一方 で 伊勢 貞 孝 の 後任 の 頭 人 で あっ た 摂津 晴 門 や 政所 の 実務 を 担当 し た 奉行 衆 の 多く が 義輝 を 殺害 し た 三好 三 人 衆 が 推す 義栄 を 嫌っ て 、 越前 国 に いる 義昭 と 通じ て 一部 は 下向 し た まま 戻る 事 は 無かっ た 。
因みに 、 『 隋 書 』 の 著者 は 、 魏 徴 (?- 貞 観 17 年 ( 643 ) ) で ある 。
貞 観 5 年 ( 631 年 ) に 倭国 は 使者 を 派遣 し て 、 入貢 し 方 物 を 献じ た が 、 太 宗 は 、 倭国 は 遠い 国 で ある から 、 毎年 朝貢 する 必要 は ない 、 と 担当 の 役所 に 命じ た 、 と いう 。