貞 成 親王 第 二 王子 。
貞 常 が 3 歳 の 時 に 兄 の 彦仁 ( 後 花園天皇 ) が 践祚 し 、 将来 の 親王 宣下 の 可能 性 が 出 て き た こと から 父 の 貞 成 親王 は その 将来 に 気 を 配り 、 当時 の 代表 的 学者 で あっ た 中原 康 富 を 侍読 として 招く など 最大限 の 配慮 を 示し た 。
後 花園 は 後 小松 上皇 の 猶子 として 即位 し た 経緯 から 、 後 小松 の 生前 に は 実家 の 待遇 改善 に は 消極 的 で あっ た が 、 永 享 5 年 ( 1433 年 ) に 後 小松 が 死去 する と 積極 姿勢 を 示し 、 庭田 重賢 ( 後 花園 と 貞 常 の 母 幸子 の 甥 ) を通じて 、 貞 常 を 元服 さ せ た うえ で 親王 と し 、 さらに 貞 成 に 上皇 の 尊号 を 奉る 意向 を 伝え た ( 『 看 聞 日記 』 嘉吉 3 年 4 月 26 日 条 ) 。
ところが 、 親王 宣下 は 突然 中止 と なり 、 貞 成 の 抗議 に 応じ て 5 月 20 日 に 万里小路 時 房 と 松木 宗 豊 が 勅使 として 貞 成 の もと に 派遣 さ れ 、 事情 聴取 を 行っ た 。
その 内容 は 不明 で ある が 、 両者 は 後 小松 上皇 の 側近 で 、 貞 成 に 尊号 を 与え て は なら ない と する 上皇 の 遺 詔 に従って 尊号 宣下 に 反対 し て い た 人々 で ある と 考え られ て おり 、 その 前提 と なる 貞 常 へ の 親王 宣下 を 延期 さ せる 結果 に 至っ て いる こと から 、 貞 成 ・ 貞 常 親子 と 天皇 の 関係 を 引き裂く よう な 性質 の デマ を 流し た と 考え られ て いる 。
問題 が 解決 し た あと の 6 月 27 日 に なっ て ようやく 貞 常 へ の 親王 宣下 が 行わ れ た 。
同年 8 月 27 日 に は 貞 成 より 家 領 を 譲ら れ た ( 文 安 4 年 に は 貞 成 へ の 尊号 が 実現 し て いる ) 。
康正 2 年 ( 1456 年 ) 8 月 に 後 崇 光 院 ( 貞 成 ) が 死去 する と 、 10 月 に は 貞 常 は 後 花園 から 後 崇 光 の 紋所 を 代々 使用 する こと と 永世 「 伏見 殿御 所 ( 伏見 殿 ) 」 と 称する こと を 勅許 さ れ た ( 『 伏見 宮 系譜 』 ) 。
また 、 父 で ある 貞 成 親王 は 『 椿 葉 記 』 において 、 天皇 が 貞 常 親王 を 猶子 に 迎える こと を 希望 し て おり 、 具体 的 な 時期 は 不明 で ある ものの 、 これ は 実現 さ れ た よう で ある ( 『 建 内記 』 抄録 文 安 4 年 2 月 20 日 条 ) 。
ただ 、 親 佐 の 別名 が 親 用 で ある 可能 性 が ある が 、 親 佐 の 別名 として は 貞 綱 という 記載 は 残さ れ て いる が 親 用 と の 記述 は 特に ない 。
天正 14 年 の 豊後 侵攻 戦 に 於い て は 、 当然 と 言う べき か 日向 口 の 島津 家久 を 総 大将 と し た 総勢 一 万 人 余 という 部隊 の 侍大将 の 一員 として 山田 有信 ・ 吉 利忠 澄 ・ 伊集院 久治 ・ 伊集院 久 宣 ・ 本田 親 貞 ・ 上井 覚 兼 ・ 樺山 忠助 ・ 樺山 規 久 ・ 平田 宗 応 ・ 新 納 久 時 ・ 平田 宗 強 と 並ん で 記録 さ れ て いる 。
戦 の 開 端 は 夜明 の 際 、 偵察 に 用心 し て いる 立花 、 高橋 軍 は 一番 に 明 、 朝鮮 水軍 と 交戦 、 立花 家臣 の 池辺 貞 政 は 明 の 陳 璘 の 戦 船 に 乗り込ん で 一番乗り の 功 を 挙げ た が 、 串刺 に 遭 れ て 戦死 し た 。
横瀬 貞 径 ( よこせ さだ みち 、 生 没年 不詳 ) は 、 江戸 時代 の 高家 旗本 。
高家 旗本 ・ 横瀬 貞 臣 の 次男 。
寛政 12 年 ( 1800 年 ) 閏 12 月 23 日 父 貞 臣 の 死去 により 家督 を 相続 する 。
文化 6 年 ( 1809 年 ) 7 月 22 日 隠居 し 、 養子 貞 征 に 家督 を 譲る 。
子女 に 養子 貞 征 、 実子 貞 固 あり 。
横瀬 貞 征 ( よこせ さだ ゆき 、 天明 元年 5 月 22 日 ( 1781 年 6 月 13 日 ) - 天保 13 年 7 月 4 日 ( 1842 年 8 月 9 日 ) ) は 、 江戸 時代 の 高家 旗本 。
高家 旗本 横瀬 貞 径 の 養子 。
子女 に 養子 貞 固 。