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後年 、 義昭 は 天下 の 実権 をめぐって 信長 と の 間 に 対立 を 深める と 義昭 の 家康 に対する 呼称 も 「 徳川 三河 守 」 と 変わり 、 信長 包囲 網 を 形成 し た 際 に は 、 家康 に も 副 将軍 へ の 就任 を 要請 し 協力 を 求め た 。

武田 氏 と の 今川 領 分割 に関して 、 徳川 氏 で は 大井 川 を 境 に 東 の 駿河 国 を 武田 領 、 西 の 遠江 国 を 徳川 領 と する 協定 を 結ん で い た と さ れる ( 『 三河 物語 』 ) 。

家康 は 北条 氏 と 協調 し て 武田 領 を 攻撃 し て い た が 、 武田 氏 は 元 亀 2 年 ( 1571 年 ) 末 に 北条 氏 と の 甲 相 同盟 を 回復 する と 駿河 今川 領 を 確保 し 、 元 亀 3 年 ( 1572 年 ) 10 月 に は 徳川 領 で ある 遠江 国 ・ 三河 国 へ の 侵攻 を 開始 し た { refnest | group =" 注釈 "| 元 亀 年間 の 武田 氏 による 織田 ・ 徳川 領国 侵攻 の 経緯 について は 西上 作戦 を 参照 。

なお 、 これ を 遡る 元 亀 2 年 4 月 に は 武田 氏 による 三河 ・ 遠江 へ の 大 規模 な 侵攻 が あっ た と さ れ て いる が 、 近年 は 根拠 と なる 文書 群 の 年代 比定 の 誤り が 指摘 さ れ 、 これ は 天正 3 年 の 出来事 で あっ た こと が 指摘 さ れ て いる ( 鴨川 達夫 『 武田 信玄 と 勝頼 』 ) 。

信玄 は 元 亀 3 年 ( 1572 年 ) 10 月 に 遠江 ・ 三河 に 侵攻 し 、 これ により 武田 氏 と 織田 氏 は 手 切 と なっ た 。

遠江 方面 の 武田 軍 本隊 と 同時に 武田 軍 別働隊 が 侵攻 する 三河 方面 へ の 防備 を 充分 に 固め られ ない ばかり か 、 この 戦い を 機 に 徳川 軍 の 劣勢 は 確定 し て しまう 。

対応 を 迫ら れる 徳川 軍 で あっ た が 、 武田 軍 は 浜松 城 を 悠然と 素通り し て 三河 国 に 侵攻 する か の よう に 転進 し た 。

( 犀 ヶ 岳 の 戦い ) 浜名湖 北岸 で 越年 し た 後 、 三河 国 へ の 進軍 を 再開 し た 武田 軍 によって 三河 設楽 郡 の 野田城 を 2 月 に は 落とさ れ 、 城主 ・ 菅沼 定 盈 が 拘束 さ れ た 。

その 生死 を 確認 する ため 家康 は 武田 領 で ある 駿河 国 の 岡部 に 放火 し 、 三河 国 で は 長篠城 を 攻める など し て いる 。

また 遅くとも この 頃 に は 、 三河 一向 一揆 の 折 に 出奔 し 、 後に 家康 の 参謀 として 秀吉 死 後 の 天下 取り や 豊臣 氏 滅亡 など に 暗躍 し た 本多 正信 が 、 徳川 家 に 正式 に 帰参 し て いる 。

しかし 本多 忠勝 に 説得 さ れ て 翻意 し 、 服部 半蔵 の 進言 を 受け 、 伊賀 国 の 険しい 山道 を 越え 加太 越 を 経 て 伊勢 国 から 海路 で 三河 国 に 辛うじて 戻っ た ( 神君 伊賀越 え ) 。

こうして 、 家康 は 北条 氏 と 縁戚 ・ 同盟 関係 を 結び 、 同時に 甲斐 ・ 信濃 ・ 駿河 ・ 遠江 ・ 三河 の 5 ヶ国 を 領有 する 大 大名 へ と のし上がっ た 。

秀吉 率いる 羽柴 軍 本隊 は 、 尾張 犬山 城 を 陥落 さ せる と 薬 田 に 布陣 し 、 4 月 初め に は 森長 可 ・ 池田 恒 興 ら が 三河 国 に 出兵 し た 。

その 状況 下 で 北条 氏 や 豊臣 政権 と の 戦い を せ ざる を 得 なかっ た 徳川 氏 の 領国 の 打撃 は 深刻 で 、 三河 国田 原 に ある 龍門 寺 の 歴代 住持 が 記し た と さ れる 『 龍門 寺 拠 実記 』 に は 、 天正 12 年 に 小牧 ・ 長久手 の 戦い で 多く の 人々 が 動員 さ れ た 結果 、 田畑 の 荒廃 と 飢饉 を 招い て 残さ れ た 老少 が 自ら 命 を 絶っ た と 記し て いる 。

11 月 11 日 に は 三河 国 に 帰還 し 、 11 月 12 日 に は 大政所 を 秀吉 の 元 へ 送り返し て いる 。

その後 、 秀吉 の 命令 で 、 駿河 国 ・ 遠江 国 ・ 三河 国 ・ 甲斐 国 ・ 信濃 国 の 5 ヶ国 を 召し上げ られ 、 北条 氏 の 旧領 、 武蔵 国 ・ 伊豆 国 ・ 相模 国 ・ 上野 国 ・ 上総 国 ・ 下総 国 ・ 下野 国 の 一部 ・ 常陸 国 の 一部 の 関 八 州 に 移 封 さ れ た 。

この 移 封 によって 150 万 石 から 250 万 石 ( 家康 240 万 石 および 結城 秀康 10 万 石 の 合計 ) へ の 類 を 見 ない 大幅 な 加増 を 受け た こと に なる が 、 徳川 氏 に 縁 の 深い 三河 国 を 失い 、 さらに 当時 の 関東 に は 北条 氏 の 残党 など によって 不穏 な 動き が あり 、 しかも 北条 氏 は 四 公 六 民 という 当時 として は 極めて 低い 税率 を 採用 し て おり 、 これ を むやみ に 上げる わけ に も いか ず 、 石高 ほど に は 実 収入 を 見込め ない 状況 で あっ た 。

なお 、 家康 は 松平 姓 から ( 勅許 を 得 て ) 徳川 姓 に 改姓 し た 際 に 、 「 三河 守 の 任官 に は 藤原 氏 を 称する 必要 が ある 」 と の 近衛 前 久 の 勧め により 本姓 を 藤原 氏 と 公称 し て い た 。

家康 は 吏僚 の 不正 や 造反 行為 に は 厳しく 、 三河 時代 に 武田 勝頼 と 内通 し た 寵臣 大賀 弥四郎 を 鋸 引き という 極刑 で 処刑 し て いる 。

家康 の 重臣 の ほとんど は 三河 以来 の 代々 仕え て き た 家臣 たち で あっ た 。