ここ に 至っ て 教皇 も 抵抗 を 諦め 、 12 月 31 日 に は シャルル 8 世 と フランス 派 の 枢機卿 団 が フランス 軍 と共に ローマ に 入城 し た 。
アレクサンデル 6 世 は ついに 汚職 の 廉 で 退位 さ せ られ 、 公 会議 が 召集 さ れ て 断罪 さ れる の か と 恐れ おののい た が 、 シャルル 8 世 に 強い 影響 力 を 持っ て い た サンマ ロ 司教 を 枢機卿 位 と 引き か え に 抱き込む 事 に 成功 し た 。
結局 、 教皇 は オスティア を 手 に いれ 、 フランス より の 2 人 の 枢機卿 を 捕らえ た だけ に 終わっ た 。
チェーザレ は その 頃 に は 既に 枢機卿 で は なくなっ て い た が 、 教皇 使節 として フランス へ 赴き 、 ルイ 12 世 と 王妃 ジャンヌ の 結婚 を 無効 と 認める 回 勅 と 引き換え に ヴァレンティノ 公 の 地位 を 手 に いれ 、 イタリア 半島 の 僭主 達 を 打倒 する 為 の 援助 の 約束 を 取り付け た 。
教皇 は さらなる 財源 として スペイン 人 を 多く 含む 新 枢機卿 12 人 を 任命 、 12 , 000 ドゥカット を 手 に 入れ た 。
1502 年 12 月 31 日 に チェーザレ によって 敵対 し た 君主 達 が 打倒 さ れ 、 その 報 を 受け た 教皇 は 即座 に オルシーニ 枢機卿 を バチカン に 誘い出し て 獄死 さ せ た 。
死去 し た 枢機卿 や 、 獄死 ・ 戦死 し た 政敵 の 財産 を 没収 する 事 が 度々 あっ た ので 、 財産 目当て の 暗殺 が 行わ れ た という 噂 が 立っ た 。
また ミキ エル 枢機卿 が 4 月 に 殺害 さ れ 、 オルシーニ 家 攻撃 の 殊勲 者 サンタクローチェ 、 ボルジア 家 お抱え の 殺し 屋 として 有名 だっ た トロッキオ も 殺害 さ れ た 。
フェラーリ 枢機卿 は 殺害 さ れ た の で は なく 、 熱病 で 死ん だ と 思わ れる が 、 結局 財産 を 教皇 に 没収 さ れ た 。
父 と 教皇 インノケンティウス 8 世 の 後押し により 1492 年 、 16 歳 の 若 さ で 枢機卿 と なる 。
カール 5 世 の 幼少 時 は 、 アドリアン は ヒメネス・デ・シスネロス 枢機卿 と 協力 し て 摂政 の 任 を 果たし た 。
1517 年 に シスネロス 枢機卿 が 没し た 後 は アラゴン・カスティーリャ 全域 の 異端 審問 所長 の 任 を 受け 、 この 仕事 を 1522 年 に ローマ へ 召喚 さ れる まで 勤め た 。
カール 5 世 に対して は 、 父親 の よう な 役割 を 果たし て い た シスネロス 枢機卿 ほど 厳しい 忠告 が できる ほど で は なかっ た よう で ある 。
これ 以前 の 1517 年 に は すでに レオ 10 世 によって 司祭 枢機卿 に 任命 さ れ て いる 。
教皇 として 教会 の 問題 を 1 つ ずつ 片付け て いこ う と 考え 、 手始め に 当時 議論 の 的 と なっ て い た 贖宥 と 結婚 の 解除 の 問題 に 取り組ん だ が 、 もっとも 強力 に 反対 し た の は レオ 10 世 以来 の 既得 権益 を 守ろ う と し た 枢機卿 達 で あっ た 。
ドイツ で は 当時 プロテスタント 問題 が 起こっ て い た が 、 ハドリアヌス 6 世 は この 事態 の 重要 性 を 十分 認識 し て い なかっ た よう で ある が 、 1522 年 の ニュルンベルク の 帝国 議会 で 教皇 使節 フランチェスコ・キエレガーティ 枢機卿 は 、 「 教会 の 混乱 の 原因 が 教皇 庁 と 高位 聖職 者 の 腐敗 に ある 」 事 を 率直 に 認め 、 「 教会 改革 を 推進 する 事 を 約束 する 」 という 教皇 の メッセージ を 伝え た 。
教皇 ・ レオ 10 世 の 下 で 枢機卿 として 有能 な 手腕 を 発揮 し て い た が 、 教皇 に 即位 し た 後 は 不安定 な 国際 情勢 に 翻弄 さ れ 、 ローマ 略奪 の 惨事 を 招く 。
芸術 ・ 文化 の パトロン という 面 で は 、 枢機卿 時代 に ラファエロ を 引き立て 、 1520 年 に 政敵 で ある マキャヴェッリ に 『 フィレンツェ 史 』 の 執筆 依頼 を し て いる 。
伯父 アエネアス が ピウス 2 世 と なっ た 為 、 ネポティズム ( 親族 登用 主義 ) の 恩恵 を 受け て 22 歳 で シエナ の 司教 及び 枢機卿 に 任命 さ れ た 。
やり たい 放題 で あっ た アレクサンデル 6 世 の 没後 、 教皇 庁 が 混乱 の 極み に 陥る 中 で 、 無欲 無私 で 知ら れ た ローヴェレ 枢機卿 ( 後 の ユリウス 2 世 ) の 後押し も あっ て 1503 年 9 月 22 日 に フランチェスコ が 教皇 に 選出 さ れ 、 ピウス 3 世 を 名乗っ た 。