また 、 持 有 ・ 教 春 ・ 政 有 ( と 後述 の 晴 貞 ・ 藤孝 ) は 足利 将軍 の 偏 諱 の 授与 を 受け て いる 。
但し 実際 に は 実弟 の 三 淵 晴 員 とともに 将軍 足利 義晴 の 近臣 と なっ て おり 、 和泉 守護 は 天文 年間 の 早い 段階 で 元 常 の 子 ・ 細川 晴 貞 が 継い だ 。
この 時 、 守護 代 の 和泉 松浦 氏 も 三好 長慶 に 味方 し た ため に 晴 貞 は 和泉 を 追わ れ た 。
晴 貞 亡き 後 は 、 細川 元 常 の 養嗣子 で 三 淵 晴 員 の 次男 の 細川 藤孝 が 家督 を 継い だ ( 藤孝 は 細川 晴 貞 の 養子 に なっ た という 説 も ある ) 。
江戸 時代 中期 の 山名 義徳 は 九州 の 筑後 柳川 藩主 家 ( 大名 ) 、 立花 貞 俶 の 子 として 生まれ 、 山名 家 に 婿養子 に 入り 旗本 家 を 継承 し た 。
この 時 、 摂津 の 伊丹 元 扶 や 丹波 の 内藤 貞 正 、 河内 の 畠山 尚順 ら も 呼応 し た ため に 澄 元 は 敗北 し 、 之 長 や 将軍 ・ 足利 義澄 と共に 4 月 9 日 に 山中 為 俊 を 頼っ て 近江 に 逃れ た 。
永 正 5 年 ( 1508 年 ) に は 、 仁木 高長 ( 仁木 氏 ) 、 伊丹 元 扶 、 内藤 貞 正 ( 国貞 の 父 ) ら と 呼応 し て 京 に 侵攻 し 、 澄 元 や 将軍 足利 義澄 を 近江 に 追放 し た 。
永 禄 元年 ( 1558 年 ) 5 月 に 義輝 ・ 晴 元 が 近江 から 進軍 し て 京都 郊外 の 東山 を 窺う と 、 久秀 は 吉祥院 に 布陣 、 弟 の 長 頼 、 三好 一門 衆 の 三好 長逸 、 伊勢 貞 孝 、 公家 の 高倉 永 相 と共に 洛中 に 突入 し て 威嚇 行動 を 行っ た のち 、 将軍 山城 と 如意 ヶ 嶽 で 幕府 軍 と 交戦 、 11 月 に 和睦 が 成立 する と 摂津 へ 戻っ た ( 北白川 の 戦い ) 。
9 月 に 長慶 に 逆らっ た 幕府 政所 執事 の 伊勢 貞 孝 ・ 貞良 父子 を 討伐 する など 功績 を 挙げ て いく 。
『 永 禄 以来 年代 記 』 に よる と 高屋 城 で は 義継 の 被官 で ある 金山 氏 ( 金山 信 貞 か ) が 久秀 へ 内応 を 図る が 高屋 衆 に 阻止 さ れ 失敗 し 、 高屋 城 から 出撃 し た 三 人 衆 に 堺 も 包囲 さ れ た ため 5 月 30 日 に 逃亡 し 、 数 ヶ月 行方 不明 と なっ た 。
ところが 、 永 禄 10 年 ( 1567 年 ) 2 月 16 日 に 再び 金山 信 貞 の 手引き で 三 人 衆 の もと から 義継 が 久秀 を 頼っ て 出奔 し て き た ため 、 これ を 契機 に 勢力 を 盛り返し 、 4 月 7 日 に 堺 から 信貴山 城 に 復帰 。
政子 の 妊娠 中 に 頼朝 は また も 大進 局 という 妾 の もと へ 通い 、 大進 局 は 頼朝 の 男子 ( 貞 暁 ) を 産む が 、 政子 を 憚 って 出産 の 儀式 は 省略 さ れ て いる 。
貞 応 3 年 ( 1224 年 ) 、 義 時 が 急死 する 。
有力 御家人 の うち 、 代々 北条 氏 と 婚姻 関係 を 結び 、 のち に 室町 幕府 の 将軍家 と なっ た 足利 氏 を 例 に とる と 、 鎌倉 期 の 嫡流 家 の 歴代 当主 の 諱 は 「 得 宗 の 当主 の 偏 諱 + 通 字 の 「 氏 」」 で 構成 さ れ て いる ( 具体 的 に は 、 泰 氏 が 泰 時 、 頼 氏 が 時 頼 、 貞 氏 が 貞時 、 貞 氏 の 三 人 の 息子 ( 高義 ・ 高 氏 ・ 高 国 ) が 高 時 から それぞれ 偏 諱 の 授与 を 受け た と する ) 。
足利 氏 は 代々 北条 氏 一門 の 女性 を 正室 に 迎え 、 その間 に 生まれ た 子 が 嫡子 と なり 、 たとえ その 子 より 年長 の 子 ( 兄 ) が 何 人 あっ て も 、 彼ら は 皆 庶子 として 扱わ れ 家 を 継ぐ こと が でき ない という 決まり が あっ た が 、 正室 ( 北条 時 盛 の 娘 ) が 子 を 生む 前 に 早世 し た 頼 氏 の 跡 は 、 その 庶子 で あっ た 家時 ( 貞 氏 の 父 、 母 は 上杉 重房 の 娘 ) が 家督 を 継い だ 。
その後 、 守護 の 職務 内容 が 次第に 明確 化 さ れ て いき 、 1232 年 ( 貞 永 元年 ) に 制定 さ れ た 御 成敗 式目 において 、 守護 の 職掌 は 、 軍事 ・ 警察 的 な 職務 で ある 大 犯 三 ヶ条 の 検 断 ( 御家人 の 義務 で ある 鎌倉 ・ 京都 で の 大番 役 の 催促 、 謀反 人 の 捜索 逮捕 、 殺害 人 の 捜索 逮捕 ) と 大番 役 の 指揮 監督 に 限定 さ れ 、 国司 の 職権 で ある 行政 へ の 関与 や 国衙 領 の 支配 を 禁じ られ た 。
だが その 最中 、 十 時 連 久 、 内田 統 続 、 安田 国 継 ( 此時 の 名 は 天野 源右衛門 貞 成 と 呼ぶ ) ら は 突撃 を 敢行 、 鑓 を 投げ て 数 十 騎 を 突落 し 、 明 ・ 朝鮮 軍 を 中央 突破 し て 回転 突破 し た が 、 その 際 に 中陣 の 戸次 統 直 は 強弓 を 引い て 20 餘 の 敵 兵 を 射 落し 援護 し ながら も 、 連 久 が 李 如梅 の 毒矢 を 受け て 、 帰陣 から 間もなく 戦死 し 、 旗 奉行 の 池辺 永 晟 も 連 久 負傷 後 は 先鋒 隊 の 指揮 を 暫任 し 中陣 と 替わる の を 成功 さ せ た が 、 後 の 追撃 戦 で 戦死 し た 。
しかし 戦機 を 待っ て それ まで 待機 し て いたも う 一方 の 井上 景 貞 隊 が その 側 背 に 回り込ん で 攻撃 し た こと で 明 軍 は 大 混乱 と なっ た 。
落馬 し た 李 如松 は 小早川 の 部将 井上 景 貞 の 手勢 に 迫ら れ た が 、 側近 の 李 有 聲 が 盾 と なっ て これ を 助け 、 李 如梅 、 李 如柏 ら が 救出 し た 、 如松 の 親衛隊 も 李 有 聲 など 80 餘名 ほど 戦死 し た 。
鎌倉 幕府 第 3 代 執権 ( 在職 : 貞 応 3 年 ( 1224 年 ) - 仁 治 3 年 6 月 15 日 ( 1242 年 7 月 14 日 ) ) 。