万 徳丸 は 元服 し て 4 代 将軍 徳川 家綱 から 一 字 を もらい 綱 国 と なり 、 三河 守 に 任官 し た 。
1932 年 6 月 、 東京 ・ 三河 島 で 失業 者 と その 家族 が 、 町長 と 警察 署 長官 舎 に 「 米 を よこせ 」 と 押しかけ 、 政府 米 の 払い下げ を 実現 。
三河 国 出身 。
その後 円福寺 は 1788 年 、 1864 年 の 大火 で 類焼 し 、 1883 年 に 三河 国 岩津 村 へ と 移さ れ た 。
1603 年 ( 慶長 8 年 ) 仁 右 衛門 は 能登 の 門前 町 に 長男 の 市 左衛門 を 残し 、 自ら は 販路 を 美濃 国 の 方面 に 拡 め 蚊帳 と共に 畳表 を 取り扱い 、 更に 尾張 ・ 三河 ・ 遠江 に 進出 し た 。
1944 年 ( 昭和 19 年 ) 12 月 7 日 の 東 南海 地震 と 1945 年 ( 昭和 20 年 ) 1 月 13 日 の 三河 地震 の 調査 を 行っ て い た が 、 金井 の 留守 中 に 調査 記録 は 焼却 処分 さ れ て しまっ た 。
額田 郡 一揆 ( ぬか だ ご おり いっき ) は 、 室町 時代 の 寛 正 6 年 ( 1465 年 ) に 三河 国 額田 郡 ( 愛知 県 岡崎 市 ) で 、 元 室町 幕府 奉公 衆 ・ 元 足利 将軍家 被官 衆 と さ れる 武士 の 一団 が 幕府 に対して 起こし た 反乱 。
『 今川 記 』 に よれ ば 一揆 の 発生 し た 当時 の 三河 で は 、 将軍家 御 一家 たる 吉 良 氏 が 東条 家 ・ 西条 家 に 分かれ て 対立 抗争 を 繰り返し 、 国内 の 国人 ・ 地 侍 衆 も 両派 に 分かれ て 幾度 も 戦っ て い た と いう 。
こうした 中 で 、 寛 正 6 年 の 三河 額田 郡 内 において 、 大場 次郎左衛門 ・ 丸山 中務 入道 父子 ・ 梁田 左京 亮 等 の 侍 たち が 井口 砦 ( 岡崎 市 井ノ口 町 ) に 籠 居 し て 武装 蜂起 し 、 京都 の 幕府 の 威令 に 服さ ず 近国 の 尾張 国 ( 守護 は 斯波 氏 ) ・ 駿河 国 ( 守護 は 今川 氏 ) に も 音信 は なく 、 ただ 「 鎌倉 殿 」 = 古河 公方 足利 成 氏 の 命 で ある と 称し て 、 域内 の 主要 な 道 を 封鎖 し て 京都 へ の 租税 等 官 物 を 奪う など の 狼藉 を 働い て い た と いう 。
この ため 幕府 は 、 同年 4 月 29 日 ( 新暦 5 月 24 日 ) 付け で 奉書 を 発し て 三河 守護 細川 成之 に 鎮圧 を 命じ 、 成之 は 三河 に 発向 し 、 国内 の 有力 国人 で ある 西郷 六郎 兵衛 ・ 牧野 出羽守 の 両 名 に も 出陣 を 命じ た 。
これら が 三河 守護 成之 から 伝達 さ れる と 、 両氏 は 一転 、 激しく 一揆 勢 の 拠点 を 攻め立て た 。
また 、 三河 国外 へ の 逃亡 を 図っ た 芦谷 助三郎 ・ 大場 長 満 寺 ら は 駿河 の 今川 領内 丸子 ( 静岡 市 丸子 ) において 今川 義忠 に 討ち取ら れ 、 その他 に 賊徒 5 名 を 捕らえ て 京 へ 護送 し た 。
一方 、 現地 で 討伐 に 当たっ た の は 、 『 今川 記 』 に 列挙 さ れ た 氏名 から 室町 幕府 の 有力 者 伊勢 氏 の 被官 および 元 守護 職 と の 被官 関係 を 指摘 さ れる 三河 国内 の 有力 国人 たち と 考え られ て いる 。
かつて 関東 における 永 享 の 乱 で 敗 死 し た 鎌倉 公方 足利 持氏 の 遺児 春王丸 ・ 安王丸 を 奉じ て 結城 氏朝 が 起こし た 永 享 12 年 ( 1440 年 ) の 結城 合戦 において 、 三河 国内 で 東条 家 が これら の 反 幕府 勢力 と 内通 し て い た ため と さ れる 。
これら の 説 に対して 更に 平野 明夫 は 、 将軍家 の 意向 により 、 持氏 の 残党 を 匿っ た 疑い で 三河 守護 一色 義 貫 が 追放 さ れ 、 阿波 細川 氏 を 新 守護 に 就任 さ せる その 過程 で 、 同 国内 に 生じ て い た 軋轢 や 利害 に 絡ん で 不満 を 持っ た 武士 達 を 斯波 義 廉 や 成 氏 が 反 伊勢 氏 勢力 として 結集 ・ 蜂起 さ せ た と みる ( 平野 は 伊勢 貞 親 と 蔭 涼 軒 主 季 瓊真 蘂 が 寛 正 5 年 ( 1464 年 ) に 斯波 義敏 と 結び 、 翌 6 年 に その 義敏 が 上洛 する と 、 成 氏 と 利害 の 一致 する 斯波 義 廉 が 10 月 より 本格 的 対抗 を 始め た と する 家永 遵嗣 の 説 を 挙げ て 、 額田 郡 一揆 は その 対抗 策 の 一つ で あっ た と する ) 。
松平 氏 は 親 氏 ・ 泰 親 の 2 代 は 有徳 人 として 京都 ・ 近江 で の 活動 や 在地 ・ 三河 国内 で は 土地 の 買得 など による 、 非 軍事 的 な 勢力 の 拡大 を 基礎 に 幕府 政所 執事 ・ 伊勢 氏 と の 被官 関係 を 結び 、 額田 郡 内 における 領主 権 は 主筋 の 伊勢 氏 を 背景 に 獲得 し た もの で あっ た が 、 伊勢 氏 の 命 を 受け た この 一揆 討伐 で は 本格 的 な 軍事 行動 によって 鎮圧 に 成功 し 、 松平 氏 は 在地 三 河 で の 領主 的 存在 感 を 示す こと が 出来 た 。
これら は 後 に 松平 氏 が 三河 国 において 戦国 大名 化 する ため の 足がかり と なっ た と 言える 。
また 、 三河 は 当時 、 将軍 ・ 義教 の 粛正 によって 守護 職権 を 奪わ れ た 一色 氏 の 残党 勢力 と 、 後任 の 守護 職 で ある 細川 氏 の 勢力 が 軍事 対立 を 続け て おり 、 一色 氏 被官 で あっ た と さ れる 東 三 河 の 牧野 氏 や 、 元 三河 守護 仁木 義長 の 元 守護 代 ・ 西郷 氏 の 一族 と さ れる この 西郷 氏 も 鎮圧 に は 消極 的 で あっ た と 考え られる 。
しかし 、 この 一揆 鎮圧 において 、 松平 氏 が 伊勢 氏 の 命 に 服し て にわかに 立場 を 三河 守護 ・ 細川 成之 側 に 転じ て 勝利 し た こと で 、 恩賞 に 深溝 ・ 形原 ・ 竹谷 ・ 五井 ・ 長澤 等 の 新 所領 を 獲得 に 成功 し た 。
これ により 、 勢力 を 西 三 河 のみ なら ず 東 三河 宝飯 郡 の 一部 に まで 拡大 し 、 各々 に 松平 庶家 を 分 出し た 。