同 10 年 ( 1813 年 ) 愛知 郡 豊明 村 ( 現 、 豊明 市 ) 聖 應寺 にて 出家 、 霊 若 寺 、 黄 龍 寺 、 龍 泰 寺 にて 修行 を 重ね 、 三河 国 香積寺 にて 風 外 本 高 の 下 で 悟り を 開く 。
三河 地方 に 移っ た 薩摩 国 島津 氏 の 庶流 で 、 江戸 時代 に は 旗本 家 が 出る 。
通 字 は 三河 野々山 氏 で 「 兼 」 、 信濃 野々山 氏 で 「 義 」 及び 「 吉 」 。
島津 氏 の 庶流 で あり 三河 国 の 地方 豪族 ( 国人 ) で あっ た 。
三河 国 野々山 を 領 し て 「 野々山 」 を 氏 と し た こと に 始まる 。
三河 、 尾張 、 遠江 の 辺り に 移り住ん だ 島津 氏 の 記録 は 見つから ず 嶋津 四郎右衛門与九郎以前 の 系図 は 分から ない が 、 南北 朝 時代 以後 に 播磨 国 の 越前 島津 氏 の 族 人 が 移り住ん だ という 説 が 有力 と さ れ て いる 。
出雲 国 徳 林寺 開山 と なり 、 文政 元年 ( 1819 年 ) に 摂津 国 圓 通院 も 開き 、 次いで 三河 国 香積寺 25 世 と なっ た 。
三河 野々山 氏 の 祖 で ある 。
天文 15 年 11 月 の 今川 義元 の 三河 侵攻 の 際 に 、 戸田 宣 成 が 篭っ て い た 今橋 城 において 今川 氏 に 内通 し て 同 城 を 陥 させ 落城 さ せる に 至り 、 その 忠節 として 細谷 郷 を 与え られ た 。
その後 は 松平 広 忠 に 仕え 、 三河 国 牛田 の 城 、 来 高寺 、 八 橋 、 駒場 を 領 し て い た 。
ちなみに 、 野々山 元 政 が 三河 野々山 氏 の 第 2 代 当主 と なっ て いる が 、 政 兼 および 野々山 氏 族 の 者 と の 血縁 関係 は ない 。
その後 、 三河 介 ・ 摂津 権 介 と 地方 官 を 歴任 し 、 元 慶 3 年 ( 879 年 ) に 従 五 位 下 ・ 宮内 少 輔 に 至っ た 。
三河 吉田 藩 の 出身 。
府中 家 の 小笠原 貞 朝 が 尾張 守護 斯波 義寛 と 結ん で 今川 氏 親 を 攻め た こと から 、 永 正 3 年 ( 1506 年 ) 氏 親 や 伊勢 宗瑞 の 要請 に 応じ て 三河 国 に 出兵 し た 。
三河 鉄道 デ 400 形 電車 ( みか わ てつ どう デ 400 が たでん しゃ ) は 、 後 の 名鉄 三河線 ・ 蒲郡線 など に 相当 する 路線 を 敷設 ・ 運営 し た 三河 鉄道 が 、 1940 年 ( 昭和 15 年 ) に 導入 し た 電車 ( 制御 電動 車 ) で ある 。
ただし 、 鋼 体 化 竣功 は 三河 鉄道 が 名古屋 鉄道 ( 名鉄 ) へ 吸収 合併 さ れ た 後 に ずれ込ん だ こと から 、 鋼 体 化 改造 後 の 竣功 届 は 名鉄 によって 管轄 省庁 へ 提出 さ れ て いる 。
以下 、 本 項 で は 三河 デ 400 形 として 導入 さ れ た 車両 形式 を 「 本 形式 」 と 記述 する 。
三河 鉄道 は 、 輸送 力 増強 を 目的 として 1940 年 ( 昭和 15 年 ) に 鉄道 省 より 郵便 ・ 荷物 合 造 車 モユニ 2 形 2005 の 払い下げ を 受け 、 デ 400 形 401 として 導入 し た 。
三河 鉄道 へ の 払い下げ 後 、 1941 年 ( 昭和 16 年 ) 年 5 月 16 日 付 設計 変更 認可 申請 にて 、 台 枠 および 主要 機器 を 流用 し て 木南 車輌 製造 にて 原形 と は 全く 異なる 半 鋼 製 車体 を 新 製 、 同年 7 月 16 日 付 竣功 届出 にて 落成 し た 。
なお 、 三河 鉄道 は 1941 年 ( 昭和 16 年 ) 6 月 1 日 付 で 名鉄 へ 吸収 合併 さ れ た ため 、 鋼 体 化 改造 後 の 竣功 届 は 名鉄 によって 提出 さ れ て いる 。