文 安 5 年 ( 1448 年 ) 2 月 17 日 、 遂に 深 川城 は 陥落 し 、 弘 忠 は もとより 、 その 子息 弘 貞 を 含む 一族郎党 全て が 殺さ れ た と いう 。
また 、 岡山 県立 博物館 寄託 の 飯 縄 権現 図 は 絹本 著 色 で 室町 期 の 作 と 推定 さ れ て おり 、 日光山輪王寺 伝来 の 「 伊 須那 曼荼羅 図 」 に は 南北 朝 ~ 室町 期 の 貞 禅 の 名 が 見える 。
この 日 は 、 基 肆団 の 校 尉 貞 弓 ら の 去る 日 で あっ た 。
貞 観 8 年 ( 866 年 ) に は 、 肥前 基 肆郡 擬大 領 ( 郡司 候補 ) 山 春 永 ( や ま の はる な が ) ・ 藤津 郡 領 葛 津 貞 津 ・ 高来 郡 擬大 領 大刀 主 ・ 彼杵 郡 住人 永岡 藤津 ら が 、 新 羅 人 と 共謀 し 、 対馬 を 攻撃 しよ う と し た 計画 が 発覚 し て いる 。
貞 観 11 年 ( 869 年 ) 6 月 から 、 新 羅 の 海賊 、 艦 二 艘 に 乗り 筑前 國 那珂 郡 ( 博多 ) の 荒津 に 上陸 し 、 豊前 の 貢 調 船 を 襲撃 し 、 年貢 の 絹綿 を 掠奪 し 逃げ た 。
また 、 同年 の 貞 観 11 年 ( 869 年 ) 5 月 26 日 ( ユリウス 暦 7 月 9 日 ) に は 、 貞 観 地震 や 肥後 で 地震 が 発生 し て いる 。
『 日本 三 代 実録 』 巻 十 六 、 貞 観 11 年 ( 869 年 ) 6 月 15 日 から 十 八 年 3 月 9 日 条 。
貞 観 12 年 ( 870 年 ) 9 月 、 新 羅 人 20 人 の 内 、 清 倍 、 鳥 昌 、 南 卷 、 安長 、 全 連 の 5 人 を 武蔵 国 に 、 僧 香 嵩 、 沙弥 傳 僧 、 關解 、 元 昌 、 卷才 の 5 人 を 上総 国 に 、 潤 清 、 果 才 、 甘 參 、 長 焉 、 才 長 、 眞 平 、 長 清 、 大 存 、 倍 陳 、 連 哀 の 10 人 を 陸 奧国 に 配する 。
また 貞 観 14 年 から 19 年 にかけて 編纂 さ れ た 『 貞 観 儀式 』 追儺 儀 ( つい な の ぎ ) で は 、 陸奥 国 以東 、 五島列島 以西 、 土佐 国 以南 、 佐渡 国 以北 は 、 穢れ た 疫鬼 の 住処 と 明記 さ れ て いる 。
また 、 貞 観 の 入寇 の 三 年 前 の 貞 観 8 年 ( 866 年 ) に は 応天 門 の 変 が 起こっ て おり 、 こうした 日本 国内 の 政権 抗争 と 同 時期 に 起こっ た 貞 観 の 入寇 など の 対外 的 緊張 の 中 で 、 新 羅 排斥 傾向 が 生み出さ れ た と さ れる 。
貞 観 五 年 ( 863 年 ) に 丹後 国 に やってき た 54 人 は 「 新 羅 東方 の 細 羅 国人 」 と 主張 し た 。
すでに 貞 観 の 韓 寇 にたいする 奉幣 祈願 の 文 に 「 我が 日本 の 朝 は 所 謂 神明 之 国 なり 」 という 思想 が みえ 、 神風 による 非 戦 の 解決 が 唱え られ て いる の が 注目 さ れる 。
貞 観 3 年 ( 629 年 ) に 東 突厥 が 唐 に 敗れる と 、 回 紇部 は 薛延 陀部 と共に 北方 の 草原 地帯 における 2 強 と なっ た が 、 回 紇部 の 吐迷 度 が 諸 部 とともに 薛延 陀部 の 多 彌 可 汗 を 大破 し た ため 、 単独 で 鉄 勒諸 部 の 盟主 と なっ た 。
貞 観 21 年 ( 647 年 ) 、 回 紇部 は 唐 の 羈縻 ( き び ) 支配 下 に 入り 、 瀚海 都 督 府 と なっ て 燕 然 都 護 府 に 属す 。
貞元 6 年 ( 790 年 ) 、 吐蕃 が 回 鶻 に 従属 し て い た 白眼 突厥 ( 白 服 突厥 ) , 三 姓 葛 禄 ( ウチュ・カルルク ) , 沙 陀部 など へ 贈物 を 贈っ て 共に 北 庭 大 都 護 府 を 攻撃 し た が 、 東方 で 奚 , 契 丹 の 反乱 が 起き て い た ため 、 忠 貞 可 汗 ( 在位 : 789 年 - 790 年 ) は 頡干 迦斯 ( イル・オゲシ ) を 派遣 し て 救援 に 向かわ せ た 。
6 月 、 頡干 迦斯 は 本国 に 帰還 する が 、 彼 の 遠征 中 に 忠 貞 可 汗 が その 弟 に 殺さ れ 、 その 弟 も 国人 によって 殺さ れ て 新た に 忠 貞 可 汗 の 子 で ある 阿 啜 ( 奉 誠 可 汗 、 在位 : 790 年 - 795 年 ) が 立っ て い た 。
事情 を 聞い た 頡干 迦斯 は 新た な 可 汗 に 臣下 の 礼 を 執る とともに 忠 貞 可 汗 の 死 を 悲しん だ 。
『 羽衣石 南条 記 』 の 説 に よる と 暦 応 4 年 ( 1341 年 ) 3 月 28 日 、 貞宗 3 歳 の とき 父 高貞 が 高師直 によって 謀反 の 濡れ衣 を きせ られ 領国 の 出雲 へ 妻子 とともに 逃げる 途中 、 高 貞 の 家臣 ・ 八幡 六郎 によって 老 僧 に 預け られ た と いう 。
名 は 盛 貞 。
冬 の 陣 の 際 は 吉田 好 寛 ( 吉田 修理 ) 、 山川 朝 貞 、 荻田 長 繁 ( 荻田 主 馬 ) ら 越前 軍 を 率い て 越前 府中 より 出陣 し 、 近江 大津 にて 江戸 から 向かっ た 藩主 忠直 と 合流 、 富 正 と 成 重 を 左右 の 先手 として 大坂 天王寺 付近 に 布陣 し た 。