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1873 年 に は 柏崎 県 と 新潟 県 が 統合 さ れ 、 新潟 県 の 一部 と なる 。

すなわち 、 藩主 ・ 家中 の 消費 生活 の 進展 による 経費 増大 や 幕府 命令 による 公役 負担 、 更に は 享 保 13 年 ( 1728 年 ) の 居城 長岡 城 まで も が 全焼 する 三蔵 火事 を 初め と する 大 火災 や 洪水 による 損害 と その 復旧 、 悠久山 や 藩校 建設 の 出費 の 増加 、 宝 暦 5 年 ( 1755 年 ) から 天明 8 年 ( 1788 年 ) に 渡る 信濃川 水運 の 船問屋 利権 の 一時 的 喪失 や 新発田 藩 開墾 事業 の 松ヶ崎 分水 による 新潟 湊 へ の 打撃 による 商業 上 の 減収 により 、 18 世紀 に 入る と 財政 問題 が 深刻 化 し た 。

元禄 以降 から は 長岡 町 や 新潟 町 、 郷中 から も 借用 し 、 享 保 13 年 ( 1728 年 ) に は 藩士 の 知行 半分 借り上げ を 行っ て いる 。

この ため 、 支配 下 の 郷中 や 長岡 城下町 、 あるいは 新潟 町 へ の 御 用金 ・ 才覚 金 の 賦課 が たび 重なり 、 蜂起 事件 も 起こっ た 。

、 明和 5 年 ( 1768 年 ) に は 御 用金 の 命令 に 反発 し た 新潟 の 町民 が 蜂起 する 事件 ( 新潟 明和 騒動 ) を 招い た 。

=== 新 潟上 知 === 新潟 は 、 牧野 氏 入 封 以来 の 長岡 藩 の 領地 で あり 、 正徳 3 年 ( 1713 年 ) に 越前 国 敦賀 の 人 で ある 中村 源 七 の 進言 を 受け て 仲 金 制 を 敷い て 以降 、 長岡 藩 の 重要 な 財源 と なっ た 。

新潟 町 が 港湾 都市 として 発展 し た の も 最初 の 2 人 の 藩主 、 堀 直 寄 と 牧野 忠 成 が 新潟 の 商人 を 保護 し て 河川 交通 ・ 海上 交通 を 発展 さ せ た こと が きっかけ で あり 、 また 先述 の 分水 事業 や 新潟 より も 古い 港町 で ある 新発田 藩 領 の 沼垂 と の 7 度 に 渡る 係争 も 起こっ た 際 に は 藩 も 係争 に 関与 し た ( 長岡 市 史 ) 幕府 は 権力 回復 の ため 上 知 令 など の 統制 強化 策 を 推し進めよ う と し て い た こと も あり 、 天保 14 年 ( 1843 年 ) に 新潟 町 の 上 知 が 命じ られ 、 外港 の 新潟 を 幕府 に 返上 し 、 新潟港 の 代替 地 として 、 天領 で あっ た 三島 郡 高梨 村 600 石 を 与え られ た 。

長岡 藩 が 新潟港 から 得 て い た 租税 は 15 , 000 石 相当 あっ た ため 、 上 知 は 藩 財政 にとって 大 打撃 と なっ た ( 以上 、 出典 ・ 1 , 北越 秘話 、 2 , 越後 長岡 藩 文書 の 備前 守 殿 勝手 向 賄 入用 相成 候 由 、 「 日本 歴史 地名 大系 15 ・ 新潟 県 の 地名 」( 平凡社 ) ) 。

( → 今泉 省三 『 長岡 の 歴史 第 1 巻 』 ) 延 宝 2 年 ( 1674 年 ) に 出さ れ た 「 諸 士 法制 十 七 条 」 の 付則 「 覚 11 条 」 において 、 藩士 の 次 、 三男 は 当分 召抱え 不要 な ので 他所 に 遣わす べき こと を 命じ 、 享 保 13 年 ( 1728 年 ) に は 藩士 の 次 、 三男 召抱え 停止 が 行わ れ た ( 「 新潟 県 史 ・ 通史 3 ・ 近世 1 」 ) 。

新潟 県 史 ・ 通史 3 ・ 近世 一 ) 。

なお 「 新潟 県 史 ・ 通史 3 ・ 近世 一 」 に よる と 享 保 13 年 に は 三蔵 火事 の 影響 による 藩士 から の 半 知 借り上げ が あり 、 これ が 知行 100 石 に対する 20 石 給付 の 直接 の 原因 に なっ た 。

なお 『 長岡 市 史 』 掲載 の 役職 の 内容 は 新潟 町 奉行 が ない ので 新潟 湊 上 知 以降 の 内容 と 推測 さ れる 。

なお 、 「 新潟 市 史 ・ 資料 編 」 14 号 の 『 新潟 町 奉行 ・ 町方 役人 勤 役 期間 留 書 』 の 解説 に 原 資料 の 『 天保 十 亥年 正月   貞 亨 元子 年 より 諸 役人 留 』 に 中老 ・ 中老 格 の 記載 が あっ た が 、 新潟 市 と 直接 関係 ない ので 省略 し た 旨 の 説明 が ある 。

また 、 「 新潟 県 史   通史 3   近世 一 」 で は 長岡 藩 の 年貢 割付 状 は 承 応 2 年 ( 1653 年 ) から 明 暦 元年 ( 1656 年 ) 頃 まで の 一時期 を 除い て 奉行 の 連署 で 発行 し て いる と し て いる 。

なお 、 「 新潟 市 史 ・ 資料 編 」 14 号 の 『 新潟 町 奉行 ・ 町方 役人 勤 役 期間 留 書 』 の 解説 に 原 資料 の 『 天保 十 亥年 正月   貞 亨 元子 年 より 諸 役人 留 』 に 奉行 の 記載 が あっ た が 、 中老 同様 に 省略 し た 旨 の 説明 が ある 。

新潟 市 史 」 で は 新潟 町 奉行 と 区別 し て 長岡 町 奉行 と 呼称 し て いる 。

ちなみに 長岡 町 奉行 の 方 が 新潟 町 奉行 より 序列 は 高い 。

なお 、 「 新潟 県 史 ・ 通史 3 ・ 近世 一 」 で は 栃尾 組 代官 の 初 見 が 確認 さ れる 皆済 状 が 発行 さ れ た 元和 7 年 から 寛文 頃 まで の 栃尾 代官 は 槇 氏 、 秋山 氏 、 平岡 氏 、 須山 ( 陶山 ) 氏 の 代官 が 長く 在勤 し 、 世襲 の 可能 性 が 同書 で 指摘 さ れ て いる 。

藩 領 で あっ た 新潟 は 港 が 有り 、 物流 ・ 軍事 の 面 で 重要 で ある ため 、 はじめ は 郡 奉行 配下 の 代官 を 派遣 し て 管理 し た が 、 延 宝 4 年 ( 1676 年 ) より 、 専任 の 新潟 町 奉行 を 新設 し て 町 政 全体 を 管理 し た 。

初代 の 新潟 町 奉行 のみ 、 担当 の 代官 2 名 を そのまま これ に 昇格 さ せ 、 役 高 は 150 石 高 という 説 が ある が 異説 有り 。