1417 年 11 月 11 日 に 公 会議 は 枢機卿 オド・コロンナ を 新 教皇 として 選出 、 彼 は 当日 の 聖人 マルティン に ちなん で マルティヌス 5 世 を 名 のっ た 。
通常 、 対立 教皇 という の は 教皇 選挙 者 たち ( 中世 以降 は 枢機卿 団 ) によって 、 ある 人物 が 教皇 に 選ば れ た あと で それ に 反対 する 人々 によって 立て られる こと が 多い 。
オットーネ は ローマ の 名門 コロンナ 家 出身 で インノケンティウス 7 世 によって 枢機卿 に あげ られ て い た 。
23 人 の 枢機卿 と 30 人 の 代表 たち による 選挙 の 結果 、 49 歳 の オットーネ が 選ば れ 、 その 日 の 聖人 の 名前 に ちなん で 、 マルティヌス 5 世 を 名乗っ た 。
城 の 窓 から 、 ビートン 枢機卿 は 、 醜聞 の 罪 で 1546 年 に プロテスタント 改革 者 ジョージ ・ ウィシャート が 火炙り に さ れる の を 目撃 し 、 同年 に ビートン は プロテスタント 改革 者 の 一派 に 城内 で 殺害 さ れ た 。
また 、 現在 まで に 枢機卿 以外 から 選出 さ れ た 最後 の ローマ 教皇 で ある 。
フランス 人 が 多数 派 の 枢機卿 ら は 、 身 の 危険 を 感じる 中 、 バーリ 大司教 で ある プリニャーノ を 選出 し た 。
現在 まで プリニャーノ は 、 枢機卿 団 以外 から 選出 さ れ た 最後 の 教皇 で ある 。
ウルバヌス 6 世 は 選出 後 、 イタリア 人 枢機卿 を 増やし 、 教会 の 改革 を 宣言 し て 高圧 的 な 態度 に 出 た 。
これ に 反発 し た フランス 人 枢機卿 ら は 、 同年 9 月 、 アナーニ に 集まり 、 教皇 選挙 は 脅迫 の もと 行わ れ た ので 無効 で ある として 、 クレメンス 7 世 を 新 教皇 ( 対立 教皇 ) に 選出 し 、 フランス 王 、 ナポリ 王 、 カスティーリャ 王 、 アラゴン 王 、 スコットランド 王 が 支持 し た 為 、 教会 大 分裂 の 事態 に 至っ た 。
1409 年 、 ローマ ・ フランス 双方 の 枢機卿 が 集まり 、 教会 大 分裂 を 収束 す べく ピサ 教会 会議 を 開催 する 。
枢機卿 に 昇進 し た のち 、 教皇 特使 として イタリア 半島 各地 や フランス など を 往復 し 、 各界 に 多く の 知遇 を 得 た 。
第 192 代 ローマ 教皇 の ケレスティヌス 5 世 は 有徳 の 人 で あっ た が 、 「 教皇 の 器 に あら ず 」 と 在位 数 ヶ月 に し て 自ら 退位 を 希望 し 、 教会 法 に 詳しい 教皇 官房 の カエターニ 枢機卿 に 相談 し た 。
ケレスティヌス 5 世 は 、 夜な夜な 聞こえる 「 ただちに 教皇 職 を 辞し 、 隠者 の 生活 に 戻れ 」 という 声 に 悩まさ れ た 末 に カエターニ 枢機卿 に 相談 し た の で ある が 、 実は 、 部下 に 教皇 の 寝室 まで 伝声管 を 引か せ て 毎夜 ささやき 、 教皇 を 不眠症 と 神経 衰弱 に 追い込ん だ 張本人 は カエターニ 自身 で あっ た と いわ れ て いる 。
カエターニ 枢機卿 は 教会 法 に 基づい た 辞任 の 方法 を 教皇 に 助言 し 、 ここ に 存命 の まま 教皇 が 退任 する という 異例 の 事態 が 発生 し た 。
ケレスティヌス 退任 後 、 ただちに 再び コンクラーヴェ ( 教皇 選挙 会議 ) が ひらか れ 、 グレゴリウス 10 世 の 定め た 手続き に したがっ て 後継 者 が 選ば れる こと と なっ て 、 その 結果 カエターニ 枢機卿 が ボニファティウス 8 世 として ローマ 教皇 に 選出 さ れ た 。
彼 も 他 の 人質 の よう に カンポ・デ・フィオリ で 殺害 さ れる 寸前 で あっ た が 、 コロンナ 家 の ポンペオ 枢機卿 の 尽力 で 秘密 裏 に 解放 さ れ た 。
1536 年 、 パウルス 3 世 の 引き立て で パレスティナ の 名義 司教 ( 司教 枢機卿 ) に 任命 さ れ た 。
ここ で 彼 は パウルス 3 世 の 有能 な ブレーン として 活躍 し 、 1545 年 12 月 に チェルビーニ 枢機卿 、 レジナルド・ポール 枢機卿 と共に トリエント 公 会議 開会 時 の 議長 を 務め て いる 。
公 会議 の 中 でも 教皇 派 と 神聖 ローマ帝国 派 の 参加 者 たち の 議論 が 引き起こさ れ た が 、 彼 は 教皇 派 枢機卿 の リーダー として 敢然と 行動 し 、 1547 年 に 公 会議 を ボローニャ に 移転 さ せる に 及ん で 神聖 ローマ 皇帝 カール 5 世 を 憤慨 さ せ た 。