さらに 1994 年 ( 平成 6 年 ) 12 月 16 日 、 建設省 は 万代島 ルート 線 を 含む 区間 を 地域 高 規格 道路 「 新潟 南北 道路 」 として 指定 し 、 下流 橋 は 新潟 市 中心 部 と 郊外 と を 連絡 する 幹線 道路 の 1 つ として 重責 を 担う こと に なっ た 。
加え て 1996 年 ( 平成 8 年 ) 12 月 に は 新潟 県 が 2002 FIFA ワールドカップ の 開催 地 に 決定 し た こと から 、 下流 橋 は まず 橋梁 部 を 含む 秣川岸通 - 万代島 間 について 2002 年 ( 平成 14 年 ) 春 の 供用 開始 を 目指す 方針 が 決まっ た 。
建設省 と 新潟 市 は 1994 年 ( 平成 6 年 ) と 1995 年 ( 平成 7 年 ) の 2 回 、 橋 の イメージ や 利用 方法 に関する 市民 アンケート を 実施 し た 。
下流 橋 の 上流 側 に 隣接 する 萬代 橋 は 、 新潟 市内 の 道路 橋梁 で は 初めて ケーソン 工法 ( ニューマチックケーソン 工法 ) が 用い られ 、 人力 掘削 で 開削 し て ケーソン が 構築 さ れ た 橋梁 で ある が 、 下流 橋 の 基礎 工 に も ニューマチックケーソン 工法 が 採用 さ れる こと に なっ た 。
建設 当時 、 新 橋梁 の 名称 は 事業 名称 の 「 万代橋 下流 橋 」 が 主 に 使用 さ れ て い た が 、 正式 名称 は 一般 公募 によって 広く 募集 する こと に なり 、 行政 関係 者 と 新潟 市 に ゆかり の ある 学識 経験 者 や 文化 人 、 市民 代表 など から 組織 さ れる 「 名称 選考 委員 会 」 が 選考 を 担う こと に なっ た 。
2000 年 ( 平成 12 年 ) 10 月 18 日 に 開か れ た 第 1 回 選考 委員 会 で 、 一般 公募 の 応募 要項 と 選考 基準 など が 決定 、 名称 募集 は 新潟 国道 事務所 と 新潟 県 、 新潟 市 の 3 者 主催 により 実施 さ れる こと に なっ た 。
そして 2001 年 ( 平成 13 年 ) 1 月 25 日 に 開か れ た 第 2 回 選考 委員 会 における 審査 の 結果 、 名称 は 「 柳 都 大橋 」 に 決定 し 、 翌 1 月 26 日 付 の 新潟 日報 朝刊 紙面 など で 発表 さ れ た 。
かつて 新潟 市 の 中心 部 に は 堀 が 巡り 、 畔 に は ヤナギ が 植 栽 さ れ て い た 。
「 柳 都 」 は 、 水 と 柳 が 織りなす 街並み を 表し た 新潟 市 の 雅称 で ある 。
この 橋 が 新潟 の 更 なる 発展 に 尽くす とともに 、 賑わい の ある 、 水 と 緑 の 豊か な まち として 未来 へ と 続く こと を 祈念 し て 命名 さ れ た 。
「 柳 都 大橋 」 は 選考 委員 の 間 でも 圧倒的 に 支持 さ れ 、 選考 委員 の 一 人 で 新潟 市 出身 の 作家 藤沢 周 は 「 自分 の 中 で イメージ が 固まっ た 時 に 『 柳 都 』 という 言葉 が 飛び込ん で き て 、 これ しか ない だろ う という 感触 を 受け た 」 と 選評 を 述べ て いる 。
この 名称 で 応募 し た 新潟 県 138 人 、 東京 都 ・ 三重 県 各 1 人 の 計 140 人 が 「 名付け親 」 として 認定 さ れ た 。
橋梁 部 を 含む 秣川岸通 交差点 - 宮浦 中学校 前 交差点 間 は 2002 年 ( 平成 14 年 ) 5 月 19 日 、 新潟 みなと トンネル と 同日 に 開通 し 、 萬代 橋 を はじめ と する 新潟 市 中心 部 の 橋梁 の 交通 量 分散 に 貢献 し た 。
のち に 下流 側 の 「 榛 島 」 ( はん の きじ ま ) と 陸続き に なり 、 明治 時代 初頭 に は 新潟 県 令 に 就任 し た 楠本 正隆 の 主導 によって 、 開化 の 礎 として 宅地 開発 が 進め られ た 。
だが 1950 年代 に 入り 、 新潟 市 周辺 で 地盤 沈下 が 深刻 化 する と 、 他 門川 は 流れ が ほとんど 無くなり 、 それ に 加え て 生活 排水 の 流入 など によって 水質 悪化 が 著しく なっ た 。
当時 の 市内 中心 部 に は 他 門川 の 他 に も 、 広い 範囲 で 堀 が 張り巡らさ れ て い た が 、 堀 の ある 小路 は 道幅 が 狭隘 で 、 自動車 等 の 通行 に 障害 が 出 はじめ 、 また 1955 年 ( 昭和 30 年 ) 10 月 1 日 未明 に 発生 し た 新潟 大火 で は 消火 活動 の 大きな 障害 と なり 、 中心 市街地 が 広範囲 で 罹災 する など 防災 上 の 問題 も 生じ た 。
新潟 市 で は 1964 年 ( 昭和 39 年 ) に 第 19 回 国民 体育 大会 ( 新潟 国体 ) の 開催 を 控え て い た こと も あり 、 水質 が 汚濁 し た 堀 を 淘汰 し て 中心 市街地 の イメージ 向上 と 防災 機能 の 強化 を 図る ため 、 堀 の 埋め立て に 順次 着手 し 、 他 門川 も 道路 拡張 の ため 1963 年 ( 昭和 38 年 ) に 埋め立て られ た 。
万代島 ルート 線 の 秣川岸通 以西 は 旧 市街地 を 経由 する 区間 で 、 万代橋 下流 橋 の 経路 は 既存 の 市道 「 広小路 」 ( 新潟 市道 広小路 通 線 ) の 拡幅 によって 整備 が 進め られる 計画 で あっ た が 、 その 区間 の 多く は 街 区 と なっ て おり 、 建物 の 撤去 や 移転 を 要する ため 、 整備 は 長期 に わたっ た 。
第四銀行 は 万代島 ルート 線 の 整備 にあたり 、 同 支店 を 移転 し て 建物 を 撤去 する 意向 を 示し た が 、 市民 から 「 昭和 初期 の 貴重 な 建造 物 を 残し て ほしい 」 と 保存 を 求める 強い 要望 が 寄せ られ た こと を 受け 、 国土 交通省 と 新潟 市 、 第四銀行 は 周辺 住民 と 市民 団体 を 交え て 処遇 に関する 議論 を 進め た 。
まず 住吉 町 支店 を 2002 年 ( 平成 14 年 ) 3 月 18 日 、 旧 支店 から 約 250 m 下流 側 の 上大川前通 十 二 番 町 へ 新築 移転 さ せ 、 空き家 と なっ た 旧 支店 の 建物 は 新潟 市 が 取得 、 約 9 億 4000 万 円 を 負担 し て 解体 工事 が 進め られ 、 2004 年 ( 平成 16 年 ) に 開館 し た 新潟 市 歴史 博物館 ( みなと ぴあ ) の 敷地 内 で 復元 移築 さ れ た 。