当時 、 内裏 は 堀河 殿 に あり 、 東宮 師 貞 親王 は 閑院 に い た ため 、 多く の 公卿 が 駆け付け た と いう 。
追って 南 院 で は 居 貞 親王 が 元服 ・ 立太子 し て いる 。
長保 1 年 ( 999 年 ) 7 月 、 居 貞 親王 が 東三条 殿 に 入り 、 その 御所 と なっ て いる が 、 長保 2 年 12 月 、 ここ で 居 貞 親王 の 子 敦 明 親王 の 読書 始 が 行なわ れ た 際 に 、 藤原 行 成 は 「 左大臣 ( 道長 ) 東三条 第 」 と 明記 し て いる 。
長保 4 年 ( 1002 年 ) 8 月 、 東宮 妃 藤原 原子 の 薨御 により 居 貞 親王 は 大炊 御門 殿 に 移る 。
同年 11 月末 から 約 3 ケ月 は 内裏 の 火災 の ため 、 一条天皇 の 里 内裏 と なり 、 東 宮居 貞 親王 は 南 院 に 入っ た 。
寛弘 8 年 6 月 、 居 貞 親王 ( 三条 天皇 ) は 一条院 内裏 で 践祚 の 後 、 寛弘 3 年 に 完成 し た ものの 使用 さ れ て い なかっ た 内裏 に 移る まで の 約 2 ケ月 を 東三条 殿 で 過ごし て いる 。
貞 観 9 年 ( 867 年 ) 正 五 位 下 、 同 12 年 ( 870 年 ) 正 五 位 上 に 昇叙 。
乾 貞 2 年 12 月 15 日 ( 929 年 1 月 28 日 ) 、 武信 王 が 死去 する と その 地位 を 継承 し た 。
史書 に よれ ば 貞 懿王 は 凡庸 で あり 、 朝政 の 重 大事 は 全て 十 弟 の 高保 勗 に 委ね て い た 。
同年 41 歳 で 病没 する と 、 太 尉 と 貞 懿王 の 諡号 を 贈ら れ た 。
大同 5 年 ( 810 年 ) 妻 の 尚侍 ・ 藤原 薬 子 による 薬 子 の 変 に 際し て 、 子 の 貞 本 は 連座 する が 、 夫 の 縄 主 は 難 を 逃れ 、 弘 仁 3 年 ( 812 年 ) 中納言 に 至っ た 。
承 久 の 乱 後 の 貞 応 2 年 ( 1223 年 ) 放火 に あい 焼亡 、 以後 再建 さ れる こと は なかっ た 。
書 は 王 世 貞 に 激賞 さ れる 程 だっ た 。
また その 文才 は 王 錫 爵 ・ 王 世 貞 ら に 推賞 さ れる ほど で あっ た 。
母 は 久世 通 夏 の 娘 ・ 貞 姫 ( 貞樹 院 ) 。
これ が 機縁 と なっ た の だろ う 、 王 は 同年 歳暮 の 参賀 で 初めて 室町 殿 へ 参じ 、 さらに 同 4 年 ( 1432 年 ) 2 月 に は 3 歳 の 子息 を 義 教 の 猶子 と し 、 伏見 宮 貞 成 親王 は これ について 日記 に 「 常盤 井開 運 基 歟 」 と 記し て いる 。
なお それでも 所領 に関し 異存 を 申し立て た 王 は やがて 義教 の 不興 を 買う ところ と なり 、 同 8 年 ( 1436 年 ) 5 月 遂に 義教 は 王 の 所領 を 削り 、 その 公事 を 伏見 宮 貞 成 親王 に 進上 し て いる 。
それでも 武田 氏 を 戴き 続ける 決意 は 変わら なかっ た が 、 武田 軍 本隊 が 本国 へ 撤退 する と 、 その 夏 に は 菅沼 正 貞 の 長篠城 が 家康 の 反撃 に 晒さ れ た 。
元 亀 4 年 が 改元 さ れ た 天正 元年 ( 1573 年 ) 8 月 、 奥平 貞 能 の 武田 離反 ・ 徳川 再 属 によって 解消 さ れ て しまう と 、 その後 の 3 家 の 運命 は 大きく 分かれ た の だっ た 。
子女 は 前田 貞 里 。