そして ワラキア 、 モルダヴィア 両 公国 の ボイエール ら も この 条約 締結 の 際 に 参加 し て い た が 、 彼ら は ロシア 、 プロイセン 、 オーストリア の 保障 の 下 で ワラキア 、 モルダヴィア の 自治 国 化 を 求め た 。
ロシア 、 オーストリア ら が オスマン 帝国 より 優位 に 立っ た こと は ワラキア 、 モルダヴィア の 人々 ら に 解放 の 気運 を 与え 、 両 公国 の 人々 は ロシア 、 オーストリア など の 対 オスマン 帝国 の 戦い に 義勇軍 として 参加 、 ボイエール たち は ウィーン や サンクトペテルブルク へ ワラキア 、 モルダヴィア 両 公国 の 自治 を 認める よう 覚書 を 送付 し て オスマン 帝国 から の 解放 を 表明 し た 。
1774 年 以降 、 一時 的 な 平和 を 得 た ワラキア 、 モルダヴィア 両 公国 は 一時 的 に 停止 さ れ て い た ファナリオティス 制 が 復活 、 アレクサンドル ・ イプシランティス { enlink | Alexander Ypsilantis ( 1725 – 1805 )| a = on } が ワラキア 公 に 就任 する と 様々 な 改革 が 行わ れ た 。
しかし この 改革 も 困窮 し て い た オスマン 帝国 政府 が 過大 な 要求 を 出し た ため 、 崩壊 、 さらに 露 土 戦争 ( 1787 年 ) が 勃発 する と ロシア 軍 、 オーストリア 軍 が ワラキア 、 モルダヴィア へ 侵攻 、 両 公国 は 主戦 場 と なり 荒廃 し た 。
そして バルカン半島 において ビザンツ 帝国 を 復活 さ せ ギリシャ 帝国 を 復興 さ せる という エカチェリーナ 2 世 の 夢 は モルダヴィア 、 ワラキア 両 公国 を 占領 し ながら も イギリス と の 利害 関係 が 発生 し た 事 で あきらめ ざる を 得 なかっ た 。
その ため 、 ワラキア 、 モルダヴィア 両 公国 の ボイエール たち は ナポレオン へ 覚書 を 送り 、 ワラキア へ の 自治 制 導入 と ファナリオティス による 公 位 独占 を 廃止 する こと を 求め た 。
ナポレオン は オスマン 帝国 に 圧力 を かけ て ワラキア 、 モルダヴィア 両 公 を 罷免 さ せ た が 、 これ は あくまでも 当時 対立 し て い た ロシア を 苦境 に 陥れる ため の 措置 で あり 、 ボイエール ら の 願い を 叶え た わけ で は なかっ た 。
しかし 、 その 一方 で ナポレオン が 1807 年 に オペール 大尉 ( 『 モルダヴィア と ワラキア に関する 統計 的 基礎 知識 』 の 著者 ) を 派遣 し た こと で その 影響 を 受け た 。
そして 、 両 公国 は 1806 年 、 ロシア によって 占領 さ れ た が 、 オルテニア の パンドゥーリ 兵 ( ワラキア における 非 常備 軍 の こと ) は ロシア に 協力 、 ロシア は オスマン 帝国 に 勝利 し た が 、 この 時 の 経験 は 後 の ワラキア 蜂起 において 役立つ こと に なっ た 。
ロシア 軍 は ワラキア 、 モルダヴィア に そのまま 駐留 し た が 、 1812 年 、 ナポレオン と の 間 に 緊張 が 走る と 5 月 28 日 、 ブカレスト 条約 が 結ば れ て ロシア 軍 は ベッサラビア 等 、 ロシア へ 編入 さ れ た 地域 まで 撤退 、 両 公国 は 再び ファナリオティス によって 統治 さ れる こと に なっ た 。
しかし 、 この ファナリオティス ら による 統治 は ワラキア 、 モルダヴィア 両 公国 にとって 圧政 の 象徴 で しか なかっ た 。
ワラキア 、 モルダヴィア で 設立 さ れ た 工場 の ほとんど が 短期間 で 倒産 し 、 一部 の 工場 だけ が 操業 を 続け て いる 状況 で あっ た 。
こうして ワラキア 、 モルダヴィア 両 公国 が 発展 する に は オスマン 帝国 を 排除 する ほか ない という 段階 に まで 至っ て い た 。
1806 年 に 勃発 し た 露 土 戦争 は ワラキア 、 モルダヴィア 両 公国 の 地 で 展開 さ れ た が 、 これ に は ルーマニア 人 義勇 兵 ら も ロシア 側 で 参加 し て い た 。
そして この 戦い に は のち に ワラキア 蜂起 の 指導 者 と なる トゥドール・ヴラディミレスク も 参加 し て い た 。
1821 年 1 月 15 日 、 ワラキア 公 で あっ た アレクサンドル ・ スツォフ { enlink | Alexandros Soutzos | a = on } が 死去 する と ヴラディミレスク は オルテニア の パデシュ ( ro ) で 蜂起 を 開始 、 ワラキア 公国 の 首都 ブカレスト は ワラキア の 貴族 の 中 でも 改革 支持 派 による 「 統治 委員 会 」 が 掌握 し た 。
そして ブカレスト の 統治 委員 会 も ヴラディミレスク 蜂起 を 支援 し つつ も 「 パデシュ 宣言 」 は オスマン 帝国 に 出来る 限り 秘密 に しよ う と し て おり 、 さらに この 蜂起 が 小さい もの で ワラキア 国内 の 軍事 力 で 制圧 できる レベル で ある よう に 矮小 化 し た 。
一方 、 イプシランディス 率いる 義勇軍 も ワラキア 、 モルダヴィア 公国 で 圧政 を 敷い て い た ファナリオティス の 出身 で あっ た こと から ワラキア の 人々 は フィリキ・エテリア へ の 協力 に 消極 的 で あっ た が 、 フィリキ・エテリア の 義勇軍 の 中 に は 現地 で 徴発 を 無理やり 行なっ た ため 、 嫌悪 や 反発 の 対象 と 化し て い た 。
その ため 一 週間 後 、 両者 の 間 で 会談 が もたれ 、 ヴラディミレスク は ロシア 軍 が 動か なかっ た こと 、 ワラキア 、 モルダヴィア 両 公国 の 人々 を オスマン 帝国 の 残忍 な 報復 に 晒し た こと や 行軍 中 の 略奪 を 激しく 非難 し 、 一方 の イプシランディス は 過去 に ヴラディミレスク が フィリキ・エテリア に 協力 を 申し出 た こと で 応酬 し た ため 、 会議 は 物別れ に 終わっ た 。
そして 両 軍 が 激突 する こと を 避ける ため に 、 ワラキア を 2 つ の 戦 区 に 分け て 、 北方 が イプシランティス 、 南方 を ヴラディミレスク が 担当 する こと だけ を 決定 し 、 ヴラディミレスク は コトロチェニ ( ro ) に 司令 部 を おい た 。