パウルス 3 世 没 後 の コンクラーヴェ は 枢機卿 会 が 3 つ の 派閥 に 分かれ て 争う 事 に なっ た 。
また 、 パルマ の 街 で 拾っ た 17 歳 の 少年 インノチェンツォ を 自分 の 兄弟 の 養子 と し 、 枢機卿 に 任命 し た こと が 大きな 非難 を 呼ん だ 。
ベレー 枢機卿 の 随員 で あっ た フランス の 詩人 ジョアシャン・デュ・ベレー は 教皇 の スキャンダル を 自分 の 詩 の 中 に 織り込ん で 教皇 の 死後 に 発表 し て いる 。
サンタクローチェ の 枢機卿 で あっ た が 、 1555 年 4 月 9 日 に 教皇 ユリウス 3 世 の 後継 者 として 教皇 に 選ば れ た 。
ジョヴァンニ・ピエトロ・カラファ は ナポリ の 名家 の 一員 として ベネヴェント で 生まれ 、 一族 の 枢機卿 オリヴィエロ・カラファ の 指導 を 受け た 。
1536 年 12 月 に カラ ファ は 枢機卿 及び ナポリ 大司教 に 選出 さ れ 、 イタリア の 異端 審問 所 を 再 編成 し た 。
異端 審問 を 強化 し 、 徹底 し た 厳格 さ で 改革 に 取り組み 、 反対 する 枢機卿 たち を 投獄 まで し た 為 、 改革 に 乗り気 で なかっ た 枢機卿 たち の 肝 を 冷やす 事 に なっ た 。
しかし 枢機卿 に 登用 し た 甥 カルロ・カラファ の 横暴 は 目 に あまる もの で あり 、 彼 の 外交 における 失政 と スペイン と の 軋轢 の 結果 、 1557 年 8 月 に は スペイン 軍 が ローマ に 進軍 する 事態 に 至っ た 。
1292 年 4 月 4 日 に 教皇 ニコラウス 4 世 が 死去 し 後継 者 の 人選 をめぐって コンクラーヴェ ( 教皇 選挙 会議 ) が 開催 さ れ た ものの 、 有力 な 枢機卿 や 諸侯 や 諸 君主 の 思惑 から 紛糾 し て 後継 教皇 の 選出 が 出来 ず 、 教皇 が 空位 と 言う 事態 が 2 年 も 続く こと に なる 。
1294 年 3 月 に なっ て ナポリ 王国 国王 ・ カルロ 2 世 が 、 コンクラーヴェ が 開催 さ れ て いる ペルー ジャ ( ウンブリア 州 ペルー ジャ 県 ) に 赴き その 場 に 会し た 枢機卿 たち に 4 人 の 教皇 候補 を 記し た メモ を 示し て 後継 選出 を 促し た ものの 、 長き にわたる 紛糾 に 疲弊 し て い た せい も あっ て 枢機卿 は 特に 関心 を 示そ う と も し なかっ た 。
ところが カルロ が ペルー ジャ を 起っ た 後 で ローマ で 暴行 事件 が 起こり 、 そこ に ( コンクラーヴェ に 出席 し て い なかっ た ) 枢機卿 ら が 関わっ た こと で 殺人 事件 から 暴動 へ と エスカレート する 。
この 事態 を 見 て ピエトロ・ダ・モローネ は ペルー ジャ に 出席 し て い た 枢機卿 の 一 人 に 手紙 を 出し 、 直ぐ に でも 教皇 を 選出 し なけれ ば コンクラーヴェ に 会 する 者 ども に は 必ずや 神罰 が 下る で あろ う と 警告 し た 。
手紙 を 受け取っ た 枢機卿 は コンクラーヴェ に この 手紙 を 披露 し 、 いっそ ピエトロ 自身 に 教皇 に なっ て もらっ たら どう か と 周囲 に 提案 。
在位 数 か月 に し て ケレスティヌス 5 世 は 、 自ら 「 教皇 の 器 に あら ず 」 と 述べ て 退位 を 希望 し 、 教会 法 に 詳しい 教皇 官房 の ベネデット・カエターニ 枢機卿 に 相談 し た 。
カエターニ 枢機卿 は 教会 法 に 基づい た 辞任 の 方法 を 教皇 に 助言 し 、 ケレスティヌス は 自ら 「 教皇 に 選ば れ た 者 は 、 選出 を 拒否 する 権利 を もつ 」 という 法令 を 出し 、 結局 、 半年 たら ず で 教皇 を 退位 し た 。
ケレスティヌス 5 世 は 、 夜な夜な 聞こえる 「 ただちに 教皇 職 を 辞し 、 隠者 の 生活 に 戻れ 」 という 声 に 悩まさ れ た 末 に カエターニ 枢機卿 に 相談 し た の で ある が 、 実際 の ところ カエターニ 自身 が 、 部下 に 教皇 の 寝室 まで 伝声管 を 引か せ て 毎晩 の 様 に 声 を 聞か せ た 上 に 、 教皇 を 不眠症 と 神経 衰弱 に 追い込ん だ 張本人 で あっ た と 言わ れ て いる 。
インドロ・モンタネッリ 『 ルネサンス の 歴史 』 で も 、 すべて カエターニ 枢機卿 の 仕組ん だ こと だ として 一連 の でき ごと を 記述 し て いる 。
ケレスティヌス 5 世 の 退位 に 伴い カエターニ 枢機卿 が ボニファティウス 8 世 として 即位 する も 、 イタリア 貴族 の コロンナ 家 が この 即位 に 不満 を 抱く こと に なっ た 。
1130 年 、 教皇 ホノリウス 2 世 の 死後 、 フランス 系 の 枢機卿 たち の 後押し によって 選ば れ た 新 教皇 インノケンティウス 2 世 の 選出 を 不服 と する 枢機卿 たち が 、 選出 を 無効 で ある として 、 新た に ピエトロ・ピエレオニ を 教皇 として 立て た 。
1527 年 に ローマ へ 赴き 、 パウルス 3 世 の 寵臣 と なり 、 いくつ か の 街 の 長官 から ラグーザ の 大司教 、 ボローニャ の 副 教皇 使節 を 経 て 1549 年 に 枢機卿 に なっ た 。