教皇 として 彼 が 初め に おこなっ た こと は 、 前 教皇 時代 の 反乱 に 参加 し た と さ れ て 断罪 し た 人々 の 恩赦 と 、 前 教皇 の 下 で 専横 を 尽くし た カルロ・カラファ 枢機卿 と パリアノ 男爵 の 裁判 と 両 名 の 処刑 で あっ た 。
ピウス 4 世 は 甥 の カルロ・ボッローメオ 枢機卿 及び ジョバンニ・モローネ 枢機卿 の 助力 を 得 て 、 なんとか トリエント 公 会議 を 閉会 まで もっ て いく こと が 出来 た 。
この 元 枢機卿 は レオ 11 世 の 死後 も 力 を 遺憾 なく 発揮 し 、 次 の 教皇 に は パウルス 5 世 ( スペイン 派 ) を 選出 さ せ て いる 。
そこで 後 に 教皇 パウルス 4 世 と なる カラ ファ 枢機卿 に 目 を かけ られ 、 ストリ や ネーピ の 司 教職 、 アレッサンドリーノ の 名義 枢機卿 、 異端 審問 所 長官 という ポスト を 得 た 。
教皇 の 指図 によって オデット 枢機卿 と 7 人 の 司教 が 解任 さ れ 、 プロテスタント に対して 寛容 な 勅 令 が 廃棄 さ れ た 。
それ は アルフォンソ・カラファ 枢機卿 ( 教皇 は 審議 の 後 で カラ ファ 一族 を 復権 し て い た ) の 元 で 行わ れ た ナポリ 会議 、 カルロ・ボッローメオ の 元 で 行わ れ た ミラノ 会議 、 そして マキム 会議 の 3 つ で ある 。
枢機卿 に あげ られ た の は 教皇 ピウス 4 世 の 時代 で あり 、 トリエント 公 会議 に も 参加 し て いる 。
1572 年 5 月 、 教皇 ピウス 5 世 の 死去 を 受け て おこなわ れ た コンクラーヴェ において ボンコンパーニ 枢機卿 が 新 教皇 に 選ば れ 、 グレゴリウス 13 世 を 名乗っ た 。
特に トリエント 公 会議 の 決議 の 実施 を 徹底 さ せ 、 不在 司教 が 問題 に なっ て い た こと を 受け て 司教 や 枢機卿 は 自ら の 担当 地域 に 住む こと を 徹底 さ せ た 。
これ を 受け て 教皇 は この 業務 の ため シルレト 枢機卿 を 長 と する 委員 会 を 設立 し て 検討 さ せ た 。
1552 年 ごろ 、 フラン シスコ 会 の 保護 者 で も あっ た ロドルフォ・ピオ・ダ・カルピ 枢機卿 ( 1500 年 - 1564 年 ) や ギスリエリ 枢機卿 ( 後 の ピウス 5 世 ) 、 カラ ファ 枢機卿 ( 後 の パウルス 4 世 ) の 目 に とまっ た こと で 、 その後 の 栄進 が 保障 さ れる こと に なっ た 。
フラン シスコ 会 の 総 代理 を 務め た 後 、 1565 年 に ボンコンパーニョ 枢機卿 ( 後 の グレゴリウス 13 世 ) に 率い られ た スペイン へ の 使節 団 の メンバー に 選ば れ た 。
ピウス 5 世 が 教皇 に なる と ローマ に 呼び 返さ れ て フラン シスコ 会 の 教皇 総 代理 に 選ば れ 、 1570 年 に グレゴリウス 13 世 の もと で 枢機卿 に あげ られ て モンタルト 枢機卿 と 呼ば れる よう に なる 。
シクストゥス 5 世 は 枢機卿 時代 から 学問 へ の 関心 が 強く 、 アンブロジウス の 著作 の 校訂 版 を 完成 さ せ て いる 。
彼 の 時代 に 枢機卿 の 定員 は 70 人 と 定め られ 、 修道 会 の 数 は 倍増 し 、 それぞれ に 職務 や 使命 が 振り分け られ た 。
この 事業 は グレゴリウス 暦 の 切り替え の 研究 で も 委員 長 を つとめ た シルレト 枢機卿 を 中心 と し た 委員 会 によって おこなわ れ た が 、 せっかち だっ た シクストゥス 5 世 は 委員 会 の やり方 に がまん でき ず 、 自ら 聖書 本文 を 改訂 し て 、 ヴルガータ 聖書 の 改訂 版 を 発行 、 今後 この 版 を 用いる よう に という 勅書 を 出し た 。
その後 オデ・ド・シャチヨン 枢機卿 の 知遇 を 得 て 、 1550 年 に その 尽力 により 、 今度 は 自著 の 出版 を 10 年間 許可 する という 国王 アンリ 2 世 の 「 特認 」 を 得る 。
これ は 、 会議 で カルロ・ボッロメーオ と ヴィテロッツォ・ヴィテッリ の 両 枢機卿 が 教皇 の 教会 の 地位 を 調整 する ため に 再び 会っ た 際 に その よう に 望ん だ 、 と さ れる 。
1437 年 、 教皇 軍 の 将軍 ヴィッテレスキ 枢機卿 は 、 再建 さ れ た パレストリーナ を 占領 し 、 ふたたび 完膚 なき まで に 破壊 し た 。
教皇 庁 から 派遣 さ れ た 知事 ( 枢機卿 ) が スポレート を 治め た 。