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モルダヴィア 公 シュテファン 3 世 ( 1457 年 - 1504 年 ) は 、 1457 年 から 1499 年 まで を 対象 と し た 歴史 書 の 編纂 を 命じ た が 、 書名 は 「 Dy Cronycke Des Stephen Woywoda auss Wallachey ( ワラキア 公 シュテファン の 歴史 書 ) 」 と 付け られ た 。

ワラキア の 年代 史家 コンスタンティン・カンタクジノ ( Constantin Cantacuzino 、 1655 年 - 1716 年 ) は 、 自身 の 述べる ところ の ルーマニア 人 と は 、 ワラキア に 住む ルーマニア 人 、 トランシルヴァニア に 住む もの 、 モルダヴィア 人 で あり 、 これら は いずれ も 同じ 言語 を 話し 、 同一 の 起源 を 持つ と し て いる 。

そのうち ひとつ は 「 Hronicul vechimei a Romano - Moldo - Vlahilor ( ルーマニア ・ モルドバ ・ ワラキア の 永続 性 の 記録 ) と 題さ れ 、 プロイセン 科学 アカデミー の 求め に 応じ て ペテルスブルク にて 執筆 さ れ た 。

導入 部 にて カンテ ミール は 、 これ は 全て の ルーマニア 人 の 地 に関する 歴史 書 で ある ( Hronicon a toată Ţara Românească ) と し 、 これ が 後に モルダヴィア 、 ワラキア 、 トランシルヴァニア に 別れ た ( care apoi s - au împărţit în Moldova , Muntenească şi Ardealul ) もの だ と 述べ 、 同書 が はじめ は ラテン語 で ( pre limba latinească ) 書か れ 、 後 に ルーマニア 語 に ( pre limba românească ) 翻訳 さ れ た もの だ と し て いる 。

この 中 で トランシルヴァニア 人 、 モルダヴィア 人 、 ワラキア 人 は ともに ルーマニア 人 と 呼ば れる ( carii cu toţii cu un nume de obşte români să chiamă ) と 書い て いる 。

複数 の 外国 人 の 旅行 家 が モルダヴィア を 訪れ て おり 、 16 世紀 以降 の 記録 に よる と 地元 の 住民 は 自身 の 言語 を 「 ルーマニア 語 」 と 呼ん で おり 、 モルダヴィア や ワラキア 、 トランシルヴァニア の 人々 は 、 その 起源 が ローマ帝国 に ある こと を 知っ て いる こと に 言及 し て いる 。

トランシルヴァニア・ザクセン 人 の ゲオルク・ライヒャーシュトルファー ( Georg Reicherstorffer 、 1495 年 - 1554 年 ) は 、 ワラキア および モルダヴィア における フェルディナント 1 世 の 使者 で あり 、 1527 年 と 1535 年 に モルダヴィア 公国 を 訪れ 、 2 つ の 旅行 記 「 Moldaviae quae olim Daciae pars , Chorographia 」 ( 1541 年 ) および 「 Chorographia Transylvaniae 」 ( 1550 年 ) を 記し て いる 。

この 中 で 、 モルダヴィア の 地理 に関して 、 ( モルダヴィア は ) その 名前 の 他 に 、 ワラキア と 呼ば れる こと も ある と し 、 モルダヴィア の 住民 の 言語 について は 「 ローマ 語 ( イタリア 語 ) が 今 も 使わ れ て おり … 、 ( モルダヴィア の ) ワラキア 人 は イタリア 系 の 民族 で あり 、 彼ら の 主張 する 通り 、 古代 ローマ の 民 の 末裔 で ある 」 と し て いる 。

ワラキア 人 は 自身 を 『 ローマ 人 』 と 呼び 、 イタリア の ローマ を その 起源 だ と し て いる 。

彼ら の 言語 は ラテン語 と イタリア 語 の 混ざっ た よう な もの で あり 、 イタリア 人 なら ば ワラキア 人 と 意思 疎通 を 図る の は たやすい こと で ある 」 。

また 、 これら の 記録 に よる と 、 周辺 に 住む スラヴ 人 たち は 、 モルダヴィア の 人々 を ヴラフ 、 ヴォロフ 等 の 呼称 で 呼ん で おり 、 ワラキア や トランシルヴァニア 、 バルカン半島 一 円 に 住む ロマンス 諸語 話者 と 同じ 名 で 呼ば れ て い た 。

人文 学者 の ニコラエ・オラフス ( 1493 年 - 1568 年 ) は 著書 「 Hungaria et Attila 」 の 中 で 、 モルダヴィア 人 が ワラキア 人 と 同じ 言語 、 習慣 、 信仰 を 持ち 、 衣装 のみ が 異なっ て いる と し て いる 。

トーマス ・ トーントン ( 商人 )( Thomas Thornton 、 1762 年 - 1814 年 ) が 、 オスマン 帝国 領内 で の 旅行 について 述べ た 1807 年 の 著書 で は 、 ワラキア や モルダヴィア の 農民 たち は 、 貴族 ( ボイエール 、 boyars ) と 区別 し て 自分 たち を ルムン あるいは ロマン と 呼ん で おり 、 彼ら の 言語 は 俗 ラテン語 で ある と し てる 。

この 書 は 「 ヴァルラアム の 説教 」 と も 呼ば れ 、 モルダヴィア で 印刷 さ れ 、 ワラキア や トランシルヴァニア など の 周囲 の 諸国 に 住む ルーマニア 語 話者 に も 普及 し た 書物 として は 最古 の 部類 に 属する 。

これ を 知っ た ワラキア や モルダヴィア の 主教 たち は ヤシ に 集まり 、 モルダヴィア 府 主教 の ヴァルラアム は 1645 年 に 「 Răspuns la Catehismul calvinesc 」 を 記し た 。

オーストリア 帝国 の ヨーゼフ 2 世 や ロシア 帝国 の エカチェリーナ 2 世 は 、 当時 オスマン 帝国 の 保護 下 に あっ た ワラキア と モルダヴィア を 統合 し 、 ロシア と オーストリア の 間 の 緩衝 地帯 と する こと を 望ん だ 。

新しい 国家 の 名前 として 「 ダキア 」 が 提唱 さ れ 、 モルダヴィア と ワラキア 、 ベッサラビア を 統合 する という もの で あっ た が 、 エカチェリーナ 2 世 は これ を ロシア の 影響 下 に 置く こと を 望ん で おり 、 「 ギリシャ 計画 」 と 呼ば れ て い た 。

また 、 1793 年 の イギリス の 議会 で 、 ホワイトブレッド ( Whitebread ) が 、 オーストリア 帝国 から ベルギー を 切り離し て 独立 さ せる フランス の 案 について 述べ た 際 、 ワラキア 、 モルダヴィア 、 ベッサラビア を 統合 し て オスマン 帝国 から 独立 さ せ ドナウ 連合 と する エドマンド・バーク による 案 について 言及 し て いる 。

イギリス の 外交 官 で 、 大使 として オスマン 帝国 の イスタンブル に 1747 年 から 1762 年 まで 駐在 し た ジェームス ・ ポーター ( Sir James Porter 、 1720 年 - 1786 年 ) は 、 オスマン 帝国 において スラヴ 人 の 次に 人口 が 多い の は 「 ルメリア 人 ( Rumelians )」、 あるいは 「 ローマ 人 ( Romani )」 で あり 、 自身 を 「 ルムリ ( Rumuryi )」 と 称する モルダヴィア 人 と ワラキア 人 が これ に 含ま れる と 述べ て いる 。

ルーマニア 語 話者 が 住む トランシルヴァニア 、 モルダヴィア および ワラキア の 地 を 統合 する 構想 は 18 世紀 まで 見 られ ず 、 それ は 「 時代 精神 に 合わ ない もの 」 で あっ た 。