3 月 に は 金沢 貞 顕 が 執権 に 就任 する が すぐ に 辞任 し 、 4 月 に 赤橋 守時 が 就任 する こと で 収拾 する 。
一族 で ある 金沢 貞 顕 が 残し た 『 金沢 文庫 古文書 』 に も 彼 が 病弱 だっ た こと が 強調 さ れ て おり 、 彼 の 病状 に 一喜一憂 する 周囲 の 様子 を うかがわ せる 。
北条 貞 顕 ( ほうじょう さだ あき ) は 、 鎌倉 時代 末期 の 武将 。
名 の 貞 顕 は 北条 貞時 の 「 貞 」 と 顕 時 の 「 顕 」 を 組み合わせ た もの と いわ れる 。
これ は 父 の 顕 時 に対する 貞時 の 信任 の 厚 さ と 貞 顕 の 器量 が 兄 より 上 と 認め られ た 処置 と さ れる 。
だが 嘉 元 3 年 ( 1305 年 ) 4 月 22 日 、 鎌倉 で 連署 で 貞 顕 の 舅 に当たる 北条 時 村 が 貞時 の 「 仰せ 」 と する 得 宗 被官 、 御家人 により 討た れる 嘉 元 の 乱 が 起こる 。
六 波 羅 探題 へ の 第 一報 は で は 「 時 村 が 誅 さ れ た 」 と あり 、 二月 騒動 を 連想 し た 貞 顕 の 居る 六 波 羅 探題 南方 で は 北方 から の 攻撃 を 恐れ て 戦々恐々 で あっ た と さ れ 、 貞 顕 の 祐筆 で あっ た 倉 栖兼 雄 に よる と 南方 は 「 恐怖 の 腸 、 肝 を 焼き 候 き 」 で あっ た と いう 。
だが 5 月 に 時 村 の 誅伐 は 北条 宗方 の 陰謀 で あっ た と する 「 関東 御教書 」 が 早馬 により 届き 、 時 村 を 殺し た 宗方 ら が 殺害 さ れ て 貞 顕 に は 連座 が 及ば ず 無罪 と さ れ た 。
また 8 月 14 日 に 北方 の 時 範 が 死去 し て 探題 北方 が 不在 と なっ た ため 、 しばらく は 南方 の 貞 顕 が 単独 で 京都 の 政務 を 担当 する こと に なっ た 。
延 慶 元年 ( 1308 年 ) 12 月 、 大仏 貞 房 と 交替 し て 六 波 羅 探題 南方 を 辞任 。
この 役 は 北条 一門 の 中 でも 要人 が 務める こと が 常 で あっ た ため 、 貞 顕 は 北条 一門 の 中 で 重要 な 人物 と 見 られ て い た こと が わかる 。
その後 、 3 月 に は 引付 頭 人 3 番 に 任命 さ れ た が 、 六 波 羅 探題 を 辞任 し て 鎌倉 に 帰還 し て 3 ヶ月 ほど の 貞 顕 が 引付 3 番 で ある こと や 兄 の 甘 縄 顕 実 ( 7 番 ) より 上位 に ある こと は 貞 顕 が 北条 一門 の 中 でも 特別 待遇 の 地位 に あっ た こと を 物語っ て いる 。
8 月 に 北条 煕 時 が 引付 1 番 から 退い た ため 、 貞 顕 は 2 番 に 昇進 し た 。
延 慶 3 年 ( 1310 年 ) 2 月 18 日 の 引付 再編 により 貞 顕 は 引付 頭 人 を 辞職 。
正和 4 年 ( 1315 年 ) 7 月 11 日 、 北条 基 時 が 執権 に なる と 貞 顕 も 連署 に 就任 し た 。
正中 3 年 ( 1326 年 ) 3 月 、 北条 高 時 が 病気 で 執権 職 を 辞職 し て 出家 する と 、 貞 顕 も 政務 の 引退 と 出家 を 望む が 、 慰留 を 命じ られる 。
3 月 16 日 、 貞 顕 は 内 管領 ・ 長崎 高 資 により 、 邦 時 成長 まで の 中継ぎ として 擁立 さ れ て 15 代 執権 に 就任 する 。
この とき 貞 顕 は 「 面目 、 極まりなく 候 」 と 素直 に 喜び 、 執権 就任 の 日 から 評定 に 出席 する など 精力 的 な 活動 を 見せ た 。
だが 貞 顕 の 執権 就任 に 反対 し た 泰 家 は 出家 し 、 それ に 追従 し て 泰 家 ・ 安達 氏 に 連なる 人々 の 多く が 出家 し た 。
これ により 貞 顕 暗殺 の 風聞 まで 立っ た ため 、 窮地 に 立たさ れ た 貞 顕 は 10 日 後 の 3 月 26 日 に 執権 職 を 辞職 し て 出家 し た ( 法名 は 崇 顕 ) 。