この ため 、 改めて 統一 的 な 『 延喜 式 』 が 編纂 さ れ て 、 以後 『 弘 仁 式 』 ・ 『 貞 観 式 』 は 用い られ なく なっ た 。
そこで 玄 宗 は 開 元 7 年 ( 719 年 ) に 「 古文 」 派 の 左 庶子 劉 知 幾 ・ 「 今 文 」 派 の 国子 祭 酒 司馬 貞 を 始め と する 両派 の 儒学 者 を 集め て 論争 を 行わ せ た ものの 、 決着 が 付か なかっ た 。
当時 の 宰相 で ある 宋 璟 ・ 蘇 頲 は 「 今 文 」 派 で 司馬 貞 の 主張 を 支持 し て い た こと から 、 玄 宗 は 彼ら の 意見 に従って 「 今 文 」 を 基本 と し ながら も 、 孔 安国 ・ 鄭 玄 ・ 韋昭 ・ 王 粛 ら の 注釈 の うち 優れ た もの を 採用 し 、 これら 諸説 を 斟酌 し ながら 注釈 を 加え 、 更に 先 の 論争 の 当事者 で ある 劉 知 幾 ・ 司馬 貞 や 諸王 の 侍読 を 務める 学者 ら の 意見 を 聞い た 上 で 修正 を 加え た と さ れ て いる 。
日本 で は 、 平安 時代 の 貞 観 2 年 10 月 16 日 ( 860 年 11 月 2 日 ) に 、 大学 博士 大 春日 雄 継 の 働きかけ によって 、 今後 『 孝 経 』 の 注釈 に は 学 令 において 『 孝 経 』 の 注釈 書 として 定め られ た 孔 安国 ・ 鄭 玄 の 注 を 用い ず に 『 御 注 孝 経 』 を 用いる 詔 が 出さ れ て いる 。
母 は 伏見 宮 貞 敦 親王 の 娘 位 子女 王 。
だが 、 実際 に 『 延喜 儀式 』 が 朝廷 の 儀礼 など 用い られ た 事 が 確認 できる 記録 が 無く 、 逸文 の 初出 も 延喜 年間 より 100 年 以上 も 経 た 『 北山 抄 』 で あり 、 その後 は 院政 期 の 書物 に 限ら れる 事 から 、 延喜 年間 に 編纂 さ れ た ものの 『 貞 観 儀式 』 ( 『 儀式 』 ) の 部分 的 手直し に 過ぎ ない と する 説 や 、 完成 し た が 施行 さ れ なかっ た と する 説 、 未 完成 に 終わっ た と する 説 、 更に は 延喜 期 の 編纂 で は なく 11 世紀 まで に 成立 し た 延喜 期 の 儀礼 に関する 記録 が 儀式 と 看做さ れ た 説 など が 諸説 に 分かれ て いる 。
貞 観 儀式 ( じ ょうがんぎしき ) は 、 平安 時代 前期 の 貞 観 年間 に 編纂 さ れ た と さ れる 儀式 ( 儀式 書 ) 。
『 政事 要略 』 において は 、 『 儀式 貞 観 』 という 引用 句 が あり 、 続い て 『 本朝 法家 文書 目録 』 に は 『 貞 観 儀式 』 10 巻 と 記さ れ て いる 。
中世 ・ 近世 を通じて 『 儀式 』 と 称さ れる 10 巻 本 が あり 、 江戸 時代 中期 に 荷田春満 が その 内容 から 三 代 儀式 の 1 つ で ある 『 貞 観 儀式 』 で ある と 比定 し て 以後 これ が 通説 化 さ れ て おり 、 所 功 ら が これ を 支持 し て いる 。
その 一方 で 、 平安 時代 中期 の 著作 で ある 『 政事 要略 』 が 書名 を 『 貞 観 儀式 』 と せ ず に 『 儀式 貞 観 』 と し て いる の は 、 当初 から この 書名 は 『 儀式 』 と 称さ れ て おり 、 『 政事 要略 』 は 単に 脚注 として 編纂 年代 で ある 元号 の 「 貞 観 」 を 付記 し た に 過ぎ ない こと 、 『 本朝 法家 文書 目録 』 は 今日 で は 存在 が 疑問 視 さ れ て いる 三 代 儀式 の 存在 を 前提 に 書い て おり 、 実際 に は 存在 し なかっ た 弘 仁 儀式 を 掲げる など 正確 性 に 疑問 が ある として 、 正式 な 書名 は 『 儀式 』 で ある と する 森田 悌 ら の 説 も 存在 する 。
その 編纂 年代 について は 、 貞 観 14 年 12 月 13 日 に 決定 さ れ た 荷 前 山陵 の 改定 が 反映 さ れ て いる こと から 、 貞 観 15 年 ( 873 年 ) 以後 、 同 19 年 ( 877 年 、 この 年 に 「 元 慶 」 と 改元 さ れる ) の うち に 編纂 さ れ た と 考え られ て いる 。
なお 、 一部 に は 現存 本 『 儀式 』 の 中 に 昌 泰 年間 に 統合 さ れ た 兵庫 寮 の 名称 が 見 られる こと など 、 昌 泰 ・ 延喜 年間 に 初出 する 語句 が 登場 する こと から 、 石塚 一 石 は 延喜 13 年 8 月 29 日 宣旨 を 『 貞 観 儀式 』 の 草稿 を 正式 な 儀式 として 編纂 する こと を 命じ た もの と する 説 を 出し て いる 。
これ を 採用 すれ ば 、 現存 の 『 儀式 』 が 実は 『 延喜 儀式 』 で あっ た 可能 性 も 浮上 する が 、 同 宣旨 を 『 延喜 式 』 編纂 に関する 宣旨 と する 説 が 通説 で あり 、 また 前述 の 荷 前 山陵 の よう な 大きな 変動 の 余地 の ある 項目 が そのまま に さ れ て いる こと から 、 延喜 年間 に 細かい 語句 の 修正 が 行わ れ た 可能 性 が ある ものの 、 現存 の 『 儀式 』 の 原本 は 貞 観 年間 に 編纂 さ れ た 儀式 ( 書 ) で ある と する の が 通説 で ある 。
現存 の 『 儀式 』 ( 『 貞 観 儀式 』 ) は 、 全 10 巻 77 篇 目 から 構成 さ れ て おり 、 第 一 から 第 五 まで は 、 「 祈念 祭儀 」 「 践祚 大嘗祭 儀 」 「 天皇 即位 儀 」 など 、 主要 な 恒例 祭儀 と 代 始 諸 儀 に 充て られ て おり 、 特に 巻 二 から 巻 四 まで を 充て た 「 践祚 大嘗祭 儀 」 は 践祚 ・ 大嘗祭 儀式 の 典拠 として 重要 視 さ れ て いる 。
貞 観 初年 、 相 州都 督 に 任じ られ た 。
一部 の 資料 で は 、 尼子 氏 の 祖 は 塩冶 高貞 の 遺児 で ある 塩冶 玄 貞 ( のり さ だ ) で ある と さ れる ( 一説 に は 、 玄 貞 が 京極 氏 の 養子 と なり 高久 と なっ た という 説 も ある ) 。
里人 の 妻 ( 法名 は 「 照 雲 院 光 誉 智 貞 大姉 」 ) は 享 保 15 年 11 月 17 日 ( 1730 年 12 月 26 日 ) に 死去 し て い た が 、 里人 の 墓 の 側 に 葬ら れ て いる 。
貞 観 初年 に 宗 正 卿 と なっ た が 、 足 の 病 の ため 辞職 し 、 太 宗 の 見舞い を 受け て 、 羊 酒 を 賜っ た 。
『 守 貞 漫稿 』 に よれ ば 、 水茶屋 で は 、 最初 に 、 1 斤 の 価 6 匁 くらい の 茶 を 茶 濾 の 小 笟 に 入れ 、 上 から 湯 を 注し た もの を 出し 、 しばらく いる と 、 別に 所望 し なく て も 塩 漬 の 桜 か 香煎 を 白湯 に 入れ て 出し 、 客 の 置く 茶代 は 、 1 人 で 100 文 置く 者 も いる し 、 4 、 5 人 で 100 文 あるいは 200 文 置く こと も ある が 、 1 人 の 場合 、 標準 は 24 文 から 50 文 の 間 で ある と いう 。
貞 観 式 ( じ ょうがんしき ) は 、 平安 時代 初期 に 編纂 ・ 施行 さ れ た 式 。