出家 後 の 貞 顕 は 息子 の 貞 将 ・ 貞 冬 ら の 栄達 を 見る こと を 楽しみ に し て い た と いう 。
六 波 羅 探題 南方 として 在京 する 貞 将 に 鎌倉 の 情勢 を 伝え たり する 役目 も 勤め て いる 。
なお 、 金沢 流 は 貞 顕 の 出世 の ため 、 貞 将 ・ 貞 冬 の 時代 に も 幕府 の 中枢 を 担う よう に なっ て い た 。
元 徳 2 年 ( 1330 年 ) 閏 6 月頃 、 貞 顕 は 眼 病 を 患っ て おり 閏 6 月 3 日 付 の 書状 で は 子 の 貞 将 宛 に それ を 報せ て いる 。
この 時 、 貞 顕 の 嫡子 の 貞 将 と その 嫡男 の 北条 忠 時 ら 金沢 一族 の 多く は 巨福 呂 坂 を 守備 し て 新田 軍 と 戦い 奮戦 し た が 討死 に し た 。
そして 5 月 22 日 、 崇 顕 貞 顕 は 高 時 と共に 北条 得 宗家 の 菩提寺 で ある 鎌倉 ・ 東 勝 寺 に 移り 最後 の 拠点 として 北条 一族 の 多く と共に 新田 軍 と 少し 戦っ た 後 ( 東 勝 寺 合戦 ) 、 自刃 し た 。
通称 が 越後 六 郎 で ある こと から 、 貞 顕 は 6 男 と さ れ て いる 。
子 に 嫡子 で 六 波 羅 探題 南方 と なっ た 貞 将 。
他 に 貞 冬 など 多数 の 男子 が いる ( 徳治 3 年 ( 1306 年 ) に 早世 し た 男子 が 1 人 いる ) 。
貞 顕 は 当時 で は 一流 の 文化 人 で あり 、 探題 時代 に 多く の 文化 人 と 交遊 し て 書写 を 行なっ たり し た 。
貞 顕 の 政治 家 として の 評価 は 「 得 宗家 の 強大 な 権力 に ひれ伏し た 」 として 低い 。
しかし これ は 貞 顕 が 幕府 滅亡 時 の 7 年 前 まで 幕府 中枢 で 幕政 を 仕切っ て い た ため ( 幕府 滅亡 まで も 一定 の 影響 力 は あっ た と 思わ れる ) という 結果 論 で あり 、 実際 の 貞 顕 は 先例 や 理 運 を 重んじる 常識 人 で 周囲 に対する 配慮 を 怠ら ない 調整 役 だっ た と いう 。
時期 が 一番 近い 例 で も 、 貞 観 地震 ( 869 年 ) の 後 に 発生 し た 仁和 地震 ( 887 年 ) の 例 で あり 、 約 18 年間 の 月日 が 経過 し て いる 。
戦国 時代 に 入り 永 正 13 年 ( 1516 年 ) 、 若泉 五郎左衛門 が 城主 の 時 、 小田 氏 の 部将 ・ 菅谷 勝 貞 によって 城 は 奪わ れ 、 一時 、 信太 範 貞 が 城主 を 務め 、 後に 菅谷 勝 貞 の 居城 と なる 。
その後 、 度々 小田 城 を 奪回 する が 永 禄 12 年 ( 1569 年 ) の 手 這坂 の 戦い で 真壁 軍 に 大敗 し て 勢力 を 失い 、 元 亀 元年 ( 1570 年 ) 以降 は 佐竹 氏 の 攻撃 を 直接 受ける よう に なり 、 菅谷 政 貞 ・ 範 政 親子 も 主君 小田 氏 を 補佐 し た が 、 天正 13 年 ( 1583 年 ) 、 ついに 小田 氏 治 は 佐竹 氏 の 軍門 に 降る 。
永 正 13 年 ( 1516 年 ) に 小田 氏 の 部将 ・ 菅谷 勝 貞 が 若 泉 五郎右衛門 を 滅ぼし 、 その 家臣 ( 菅谷 某 または 信太 範 貞 ) が 城 に 入っ た 。
後 、 菅谷 氏 が 勝 貞 、 政 貞 、 範 政 の 三 代 にわたって 土浦 城 を 守っ た 。
河内 源氏 義国 流 、 足利 氏 の 嫡流 ・ 足利 貞 氏 の 三男 。
応永 34 年 ( 1427 年 ) に 亡くなっ た 父 の 跡 を 継い だ が 、 前 将軍 ・ 義持 ( 当時 の 将軍 は 第 5 代 義量 ) が 満祐 の 所領 で ある 播磨 を 没収 し て 寵愛 する 側近 の 赤松 持 貞 ( 満祐 の 又従兄弟 ) に 与えよ う と する と 、 満祐 は 京都 の 自邸 を 焼き払っ て 領国 の 播磨 へ 下り 、 一族 を 集め て 合戦 の 準備 を 始め た 。
翌年 に 突如 持 貞 と 義持 の 側室 と の 密通 に関する 告発 が あり 、 持 貞 は 切腹 に 追い込ま れ た 。