この 報 が 東北 に 伝わる と 仙台 藩 で は 会津 藩 ・ 庄内 藩 と 協調 し 新 政府 と 敵対 す べき という 意見 が 多数 と なっ た 。
閏 4 月 4 日 、 仙台 藩 主席 家老 ・ 但木 成行 の 主導 で 奥羽 14 藩 は 会議 を 開き 、 この 状態 で の 会津 藩 ・ 庄内 藩 へ の 赦免 の 嘆願 書 を 提出 し た 。
閏 4 月 20 日 、 仙台 藩 で 藩 家老 の 命令 によって 世良 修蔵 が 殺害 さ れ 、 続い て 新 政府 軍 部隊 も 殺害 さ れ た 。
九条 総督 ・ 醍醐 参謀 ら は 仙台 城下 に 軟禁 さ れ た 。
これ と 並行 し て 仙台 藩 ・ 米沢 藩 を 中心 に 、 会津 藩 ・ 庄内 藩 赦免 の 嘆願 書 の ため の 会議 を 新 政府 と 敵対 する 軍事 同盟 へ 改変 さ せる 工作 が 行わ れ た 。
また 仙台 藩 と 会津 藩 に は 輪 王寺 宮 を 「 東武 皇帝 」 として 即位 さ せる 構想 が あっ た と さ れる が 、 史料 が 限ら れ て おり 、 輪 王寺 宮 の 即位 の 有無 は 議論 が ある 。
また 仙台 藩主 ・ 伊達 慶 邦 は 征夷大将軍 に 、 会津 藩主 ・ 松平 容保 は 征 夷 副 将軍 に 就任 する 予定 だっ た と さ れる 。
新 政府 から 派遣 さ れ た 奥羽 鎮撫 総督 府 は 庄内 藩 を 討つ ため 沢 為 量 及び 大山 綱 良 の 率いる 新 政府 軍 を 仙台 から 出陣 さ せ た 。
その後 列藩 同盟 の 成立 に際し 、 仙台 に 駐屯 し て い た 世良 修蔵 を 始め と する 新 政府 軍 は 仙台 藩 によって 殺害 さ れ 九 条 道 孝 総督 ・ 醍醐 忠敬 参謀 ら は 軟禁 さ れ た 。
新 政府 は 仙台 藩 によって 軟禁 状態 に ある 九 条 総督 救出 の ため 佐賀 藩士 ・ 前山 長 定 ( 前山 清一郎 ) 率いる 佐賀 藩 兵 及び 小倉 藩 兵 を 仙台 藩 に 派遣 し た 。
閏 4 月 29 日 、 前山 の 新 政府 部隊 が 船 で 仙台 に 到着 する と 、 この 両 藩 は 薩長 両 藩 で は なかっ た ため に 仙台 藩 は 軟禁 し て い た 鎮撫 総督 府 要人 を 前山 の 部隊 に 引き渡し た 。
総督 府 一 行 は 庄内 藩 討伐 の ため に 仙台 に 居ら ず 生存 し て い た 沢 為 量 及び 大山 綱 良 ら 総督 府 残存 部隊 と 合流 し た 。
久保田 藩 の 新 政府 へ の 接近 を 察知 し た 仙台 藩 は 久保田 藩 に 使者 7 名 を 派遣 し た 。
しかし 九 条 総督 軟禁 時 に 仙台 藩 に 同僚 ら を 殺害 さ れ て い た 大山 綱 良 ・ 桂 太郎 ら の 説得 も あり 、 久保田 藩 の 尊皇 攘夷 派 は 7 月 4 日 、 仙台 藩 の 使者 と 盛岡 藩 の 随員 を 全員 殺害 し た 。
さらに 、 庄内 藩 、 仙台 藩 の 軍勢 は 連戦 連勝 に 近い 状態 で 久保田 城 の 目前 に まで 迫っ た 。
仙台 藩 が 列藩 同盟 設立 の 姿勢 を 顕 に し 総督 府 の 世良 修蔵 を 殺害 、 九条 道 孝 総督 ・ 醍醐 忠敬 参謀 ら を 仙台 城下 に 軟禁 し た の と 同日 の 閏 4 月 20 日 、 会津 軍 と 仙台 藩 は 呼応 し て 白河 城 を 新 政府 から 奪い取っ た 。
新 政府 軍 側 に は 増援 は 一向に 到着 し なかっ た が 、 会津 藩 ・ 仙台 藩 を 主力 と する 列藩 同盟 軍 4500 人 弱 は 7 次 にわたって 白河 城 の 奪取 を 試み 失敗 に 終わっ た 。
平潟 戦線 における 列藩 同盟 軍 の 主力 は 仙台 藩 だっ た 。
また 仙台 藩 は 列藩 同盟 の 盟主 で あり ながら 恭順 派 が 勢い を 増し て い て 、 藩 領 外 へ の 進軍 は 中止 さ れ た 。
官軍 総 司令 官 ・ 大村 益次郎 ( 長州 藩 ) は 仙台 藩 の 攻撃 を 優先 する こと を 主張 し て い た が 、 現地 の 司令 官 ・ 伊地知 正治 ( 薩摩 藩 ) 、 板垣 退助 ( 土佐 藩 ) の 会津 進攻 策 が 通り 、 会津 戦争 が 行わ れる こと に なっ た 。