9 月 4 日 米沢 藩 が 新 政府 に 降伏 し 、 米沢 藩主 ・ 上杉 斉憲 は 仙台 藩 に 降伏 勧告 を 行っ た 。
その 結果 も あり 9 月 10 日 仙台 藩 は 新 政府 に 降伏 し た 。
8 月 26 日 仙台 藩 内 の 浦戸 諸島 ・ 寒風沢島 ほか ( 松島湾 内 ) に 寄港 し 、 同盟 軍 及び 大鳥 圭介 ・ 土方 歳三 等 の 旧 幕府 軍 の 残党 勢力 、 約 2 , 500 人 を 収容 し 、 10 月 12 日 に 蝦夷 地 ( 北海道 ) へ と 向かっ た 。
明治 2 年 ( 1869 年 ) 5 月 、 各 藩主 に 代わる 「 反逆 首謀 者 」 として 仙台 藩 首席 家老 ・ 但木 成行 、 仙台 藩 江戸詰め 家老 ・ 坂 英 力 、 会津 藩 家老 ・ 萱野 長 修 は 東京 で 、 盛岡 藩 家老 ・ 楢山 佐渡 は 盛岡 で 刎首 刑 に 処さ れ た 。
続い て 仙台 藩 家老 の 玉虫 左 太夫 と 若生 文 十 郎 が 切腹 さ せ られ た 。
追討 を 命じ られ て い た 仙台 藩 、 米沢 藩 など 東北 諸 藩 は 会津 藩 に 同情 的 で 、 会津 藩 赦免 の 嘆願 を 行う 一方 、 奥羽 越 列藩 同盟 を 結成 し て 結束 を 強め た 。
奥羽 越 藩 同盟 の 結成 時点 ( 白石 会議 ) で は 赦免 嘆願 を 目的 と し て い た が 、 会津 藩 が 明治 新 政府 の 通達 に対して 罪 を 認め ず 謝罪 を 拒否 する 回答 書 を 示し た 事 と 、 明治 新 政府 の 鎮撫 使 で ある 世良 修蔵 が 仙台 藩士 によって 殺害 さ れ た 事件 から 戦争 に 傾く こと に なる 。
大村 益次郎 は 仙台 ・ 米沢 の 攻撃 を 主張 し 、 板垣 退助 と 伊地知 正治 は 、 会津 藩 の 攻撃 を 主張 し た 。
旧 幕府 軍 の 残存 兵力 は 会津 を 離れ 、 仙台 で 榎本 武揚 と 合流 し 、 蝦夷 地 ( 北海道 ) へ 向かっ た ( 箱 館 戦争 ) 。
幕府 は 財政 負担 軽減 の ため に 仙台 、 盛岡 、 弘前 、 久保田 、 松前 の 東北 の 大藩 に対して 沿岸 の 警備 義務 を 割り当て て 、 会津 と 庄内 の 2 藩 も それ に 続い た 。
物流 は 北上川 舟運 による 輸送 が 主流 で あり 、 仙台 藩 の 石巻 を 経由 し て 江戸 ・ 上方 と 結ば れ て い た が 、 西 に は 鹿角 街道 ( 流 霞 道 ) が あり 、 遠国 と の 海運 を 果たす 重要 ルート で あっ た 。
戊辰戦争 の 戦後 処理 として 、 途中 から 新 政府 側 に 参加 し た 久保田 藩 、 津軽 藩 が 論功行賞 を 受ける 一方 で 、 転 封 を 命じ られ た の は 、 盛岡 藩 と 会津 藩 、 庄内 藩 、 それに 近江 国 朝日山 5 万 石 で 移さ れ た 山形 藩 など が あり 、 減 封 を 命じ られ た の は 、 明治 元年 12 月 7 日 、 仙台 藩 は 62 万 石 から 28 万 石 に 、 米沢 藩 は 4 万 石 を 削減 さ れ 14 万 7000 石 など が あっ た 。
利 恭 は 明治 政府 が 仙台 藩 から 没収 し た 所領 の 一部 、 白石 13 万 石 ( 刈田 郡 ・ 柴田 郡 ・ 伊具 郡 ・ 亘理 郡 および 宇多 郡 の 一部 ) へ の 減 転 封 を 命じ られ た 。
盛岡 藩 で は 江戸 藩邸 へ の 物資 を 廻送 は 、 慶安 期 以降 に 北上川 舟運 ( しゅう うん ) と 太平洋 の 海運 を 利用 し 、 仙台 領 石巻 に 米倉 を 設置 し た 。
天保 8 年 ( 1837 年 ) に は 、 昨年 の 一揆 に対し 稗貫 ・ 和賀 の 農民 2 千 人 以上 が 仙台 領 に 越訴 する 事態 に 発展 し 、 南部 藩 を 非難 し た 。
南部 藩 は 一揆 衆 を 取り戻す ため 、 首謀 者 を 処罰 し ない こと を 約束 し 、 仙台 藩 は 幕府 に 内密 に する こと を 約束 し た 。
上納 金 の 不払い を 要求 する もの で は なく 、 大挙 し て 仙台 領 へ 出稼ぎ に で て その 労賃 を もっ て 支払う という 経緯 の ため 、 南部 藩 の 恥 を 天下 に さらす こと と なり 、 鎮圧 一点ばり の 鎮撫 は 行え なかっ た 。
6 月 4 日 、 大槌 通 に 押し寄せ 、 翌 5 日 に 釜石 に 集合 し た 一揆 の 人数 は 一 万 六 千 余人 に も 達し 、 仙台 領 へ の 越訴 を 画策 し 、 盛岡 領 平田 番所 から 仙台 領 へ 押し 通 ろう し た が 、 唐丹 番所 側 で は 藩 境 警備 を 厳重 に 取り締まっ て い た ため 、 間道 を 進み 気仙 郡 唐丹 村 に 八 千 人 余 が 越訴 し 、 仙台 藩 の 役人 に 訴え 出る という 、 前代未聞 の 自体 に なっ て い た 。
その 訴状 に よれ ば 、 三 閉伊 を 幕 領 化 か 、 仙台 藩 領 化 を 願い出 た もの で 、 仙台 藩 で は 政治 的 要求 で ある から 返答 は 出来 ない と し 、 具体 的 な 要求 を 尋ね 、 商品 経済 の 発達 によって 賦課 さ れ た 重税 に対する 反対 行動 で あっ た が 、 答え た 47 箇条 の 願文 を つくりあげ 、 伊達 藩 へ 差し出し た 。
元禄 4 年 ( 1691 年 ) 4 月 、 老中 より 、 盛岡 ・ 仙台 両 藩 の 留守居 役 に対して 、 御馬 買 衆 の 派遣 は 中止 する が 、 歳 、 毛色 、 性別 を 目録 に 認め て 、 幕府 に 提出 する よう 求め られ 、 目録 を もと に 注文 し て 馬 を 購入 する よう に し た 。