敗戦 に 次ぐ 敗戦 で 幕府 軍 は 鎌倉 の 防備 を 固め 、 鎌倉 街道 を 進軍 し て くる 義貞 軍 に対し 、 金沢 貞 将 を 化粧 坂 に 、 大仏 貞 直 を 極楽寺 坂 切通し に 、 北条 守時 を 洲崎 ( 小袋 坂 、 巨福 呂 坂 切通し ) に それぞれ を 配置 し た 。
義貞 の 本隊 が 化粧 坂 ( けわい ざか ) 切通し 、 大 舘 宗 氏 と 江田 行義 の 部隊 が 極楽寺 坂 切通し 方面 から 、 堀口 貞 満 、 大島 守之 の 部隊 が 巨福 呂 坂 切通し から 鎌倉 を 総 攻撃 する 手はず を と 整え た 。
極楽寺 坂 切通し を 攻撃 し て い た 大 舘 宗 氏 は 、 波打ち際 を 突破 し て 鎌倉 へ の 進路 を 打開 しよ う と し た が 、 大仏 貞 直 の 迎撃 によって 討死 し た 。
最後 の 戦場 は 葛西 谷 に ある 北条 一族 菩提寺 の 東 勝 寺 に 推移 し 、 長崎 高重 、 大仏 貞 直 、 金沢 貞 将 ら の 奮戦 むなしく 、 22 日 に 北条 高 時 ら は 自害 ( 東 勝 寺 合戦 ) 、 鎌倉 幕府 は 滅亡 し た 。
義貞 の 配下 で ある 堀口 貞 政 が 、 時 行 蜂起 に際して 、 背後 から の 攻撃 を 計画 し て い た 。
しかし その後 、 護良親王 殺害 に 立ち会っ た 女房 の 証言 で 、 直義 による 親王 殺害 が 事実 と 判明 し た 他 、 直義 が 赤松 則村 、 那須 資 宿 、 諏訪部 扶重 、 広 峯 貞 長 、 長田 教 泰 、 田代 顕 綱 ら 、 諸国 武士 に 義貞 討伐 を 促す 檄文 を 送っ て い た こと が 判明 する 。
事実 上 の 関 軍 総 大将 と なっ た 義貞 は 上 将軍 として 尊 良 親王 を 奉じ 、 脇屋 義助 、 義治 、 堀口 貞 満 、 千葉 貞胤 、 宇都宮 公綱 など を 率い 東海道 を 鎌倉 へ 向かい 、 軍勢 は 10 万 以上 に 膨れ 上がっ た 。
江田 ・ 大舘 の 行動 に 疑問 を 感じ て い た 義貞 の 部下 堀口 貞 満 が この 事情 を 知っ て 比叡山 を 駆け 上がる と 、 還幸 の 儀式 は すでに 始まっ て い た 。
貞 満 は 鳳輦 の 轅 に すがりつい て 、 「 なぜ 義貞 の 多 年の功 を 忘れ 、 大逆無道 の 尊 氏 に 心 を 移さ れる の か 」 、 「 新田 一族 の 忠節 が ある に も かかわら ず 味方 が 敗戦 続き な の は 、 帝 の 徳 の 不足 で ある 」 、 さらに は 「 新田 一族 を 見捨て て 京都 へ 帰還 する の で あれ ば 、 義貞 以下 一族 50 余人 の 首 を 刎 ね て いただき たい 」 、 と 目 に 涙 を 浮 ながら も 後醍醐 帝 の 無 節操 を 非難 し て 訴え た 。
斯波 高経 の 他 に 、 仁木 頼 章 、 小笠原 貞宗 、 今川 頼 貞 、 高師泰 、 細川 頼 春 ら 6 万 の 大軍 を 差し向け 、 さらに 海上 に も 水軍 を 派遣 し て 四方 から 金ヶ崎 を 包囲 し た 。
1 月 12 日 、 瓜生 保 と その 弟 達 、 里見 時 義 ら が 、 杣山 城 から 兵糧 を 金ヶ崎 城 へ 運び込も う と 向かっ た が 、 足利 軍 に 察知 さ れ て 今川 頼 貞 に 迎撃 さ れ 壊滅 、 瓜生 兄弟 、 里見 時 義 ら は 戦死 し た 。
義貞 の 直系 で は 、 応永 年間 に 義宗 の 子 ・ 貞方 が 捕縛 さ れ 、 長子 の 貞 邦 と共に 鎌倉 で 処刑 さ れ て 断絶 し た と いう 。
しかし 、 貞方 の 諸子 の 内堀 江 貞 政 は 堀江 氏 と 称し 、 武蔵 国 稲毛 に 逃れ た 。
貞 政 の 子孫 は 後 北条 氏 に 仕え た 。
さらに 、 もう ひとり の 子 の 中村 貞 長 は 陸奥 に 逃れ 、 中村 氏 と 称し 、 伊達 氏 に 仕え た 。
『 熊谷 家 伝記 』 の 伝承 に よれ ば 、 坂部 熊谷 家 の 初代 熊谷 直 貞 は 、 三河 熊谷 氏 の 祖 で ある 熊谷 直 重 の 娘 、 常盤 と 新田 義貞 と の 間の子 で ある と さ れ て いる 。
李 攀竜 は 、 宋 詩 優勢 の 中 、 王 世 貞 ら とともに 古 文辞 派 の 後 七 子 として 、 盛 唐詩 ( 玄 宗 時代 の 詩 ) を 規範 と する 擬古 主義 的 な 文学 を 推進 し て い た 。
貞 応 3 年 ( 1224 年 ) に は 後 堀河 天皇 により 皇室 の 祈願 寺 と 定め られ た 。
嵯峨天皇 が 崩御 し て から 30 数 年 後 の 貞 観 18 年 ( 876 年 ) 、 皇女 の 正子 内親王 ( 淳和天皇 皇后 ) が 離宮 を 寺 に 改め た の が 大覚寺 で ある 。
今井 弘 済 ・ 内藤 貞 顕 編 。