1744 年 、 ルイ 15 世 は オーストリア 継承 戦争 で 戦う 軍隊 の 指揮 を 執る ため アルザス に 出征 し た が 、 この 出征 に シャトー ルー 夫人 が 同行 し た こと が 世間 の 不評 を 買っ て い た 。
従軍 聖職 者 は 赦罪 の ため に 愛妾 と 別れる こと を 求め 、 ルイ 15 世 は これ に従って 懺悔 し 、 シャトー ルー 侯爵 夫人 は 追い返さ れ た 。
この 年 の 終わり に シャトー ルー 侯爵 夫人 は 死去 し 、 国王 は 寵姫 の 死 を ひどく 悲しん だ 。
後 に ポンパドゥール 夫人 と 呼ば れる こと に なる ジャンヌ = アントワネット・ポワソン は 1745 年 2 月 に 仮面 舞踏 会 で ルイ 15 世 と 出会っ た 。
ポンパドゥール 夫人 は ヴェルサイユ 宮殿 の 3 階 に 住まい 、 ここ で 国王 は 退屈 で 煩わしい 宮廷 儀礼 から 逃れ て 寛ぎ 、 ブルジョア 風 の 生活 を 好ん だ 。
ポンパドゥール 夫人 は 体 を 壊し た ため 1750 年 以降 は 公 妾 を 退き 、 国王 と は 友人 として 付き合っ た 。
ポンパドゥール 夫人 は 政界 に ポンパドゥール 派 と 呼ば れる 派閥 を 形成 し 、 「 私 が 支配 する 時代 」 と 自ら 言う ほど の 権勢 を 持つ こと に なる 。
ポンパドゥール 夫人 の 奢侈 と 浪費 は 当時 の 人々 から 非難 さ れ た が 、 彼女 は 芸術 家 の パトロン と なり 、 ルイ 15 世 時代 の フランス 芸術 の 発展 に 無視 し え ない 貢献 を なし て いる 。
セーヴル に 王立 磁器 製作所 を 設立 し 、 セーヴル 焼 を 完成 さ せ た の も ポンパドゥール 夫人 の 貢献 で ある 。
これ に は プロイセン 王 フリードリヒ 2 世 を 嫌う ポンパドゥール 夫人 が オーストリア と の 仲介 役 と なっ た が 、 その 役割 は 巷間 に 知ら れる ほど 大きく は なかっ た よう で ある 。
ダルヌヴィル は 「 二 十 分の 一 税 」 を 導入 し た 有能 な 政治 家 だっ た が 、 ポンパドゥール 夫人 の 不興 を 買っ て 失脚 し た と さ れ て いる 。
翌 1764 年 4 月 15 日 に この 戦争 に 少なから ず 関わっ た ポンパドゥール 夫人 が 死去 し た 。
ルイ 15 世 は ポンパドゥール 夫人 の 葬列 を 涙 を 流し て 見送っ て いる 。
彼 は ポンパドゥール 夫人 の 人脈 で 出世 し た 人物 で 、 七 年 戦争 で は 主戦 派 として 戦争 を 推進 し て い た 。
老境 に 入っ て い た ルイ 15 世 は ジャンヌ を ヴェルサイユ 宮殿 に 迎え入れ て 寵愛 し 、 更に デュ・バリー 子爵 の 弟 と 結婚 さ せ て デュ・バリー 夫人 と 名乗ら せ 公 妾 と し た ( 公 妾 は 既婚 者 で ある 慣わし が あっ た ) 。
ショワズール 公 は デュ・バリー 夫人 を 嫌 悪し 、 その ため に 政治 に 関心 が なかっ た デュ・バリー 夫人 は 反 ショワズール 公 の 廷臣 たち と 結びつき 、 政争 に 巻き込ま れる よう に なっ た 。
だが 、 失脚 し た ショワズール 公 派 と パリ 高等法院 の 法服 貴族 たち が 、 デュ・バリー 夫人 を 元 娼婦 と 非難 する 小 冊子 を 作成 し て 広め 、 国王 の 権威 を 更に 貶める こと に なっ た 。
病状 が 悪化 し て 助から ぬ と 悟っ た 彼 は 、 神 へ の 懺悔 の ため に 愛人 デュ・バリー 夫人 を 宮廷 から 立ち退か させ た 。
---- 鹿 の 園 ( しか の その 、 仏 : Parc - aux - cerfs ) は 、 18 世紀 、 フランス 王 ルイ 15 世 の ため に 、 その 公 妾 ポンパドゥール 夫人 が ヴェルサイユ の 森 に 開設 し た と さ れる 娼館 の こと で ある 。
平民 出身 で 美貌 と 才覚 で ルイ 15 世 の 公 妾 の 地位 を 獲得 し た ポンパドゥール 夫人 が 、 ルイ 15 世 の 寵愛 を 独占 し つづけ 、 かつ 新た な 愛妾 が ルイ 15 世 に 生まれ ない よう 、 名 も ない 市井 の 女性 に 金 を 支払っ て 一定 期間 「 鹿 の 園 」 に 住まわせ た と 云わ れ て いる ( 異説 も ある ) 。