天 長 9 年 ( 832 年 ) 多治比 貞 成 の 奏請 により 、 一族 とともに 多治比 から 丹 墀 に 改姓 する 。
天 安 2 年 ( 858 年 ) 従 五 位 上 ・ 左 少 弁 に 叙任 さ れる と 、 清和 朝 の 前半 は 弁 官 を 務め 、 貞 観 5 年 ( 863 年 ) 右 中 弁 、 貞 観 8 年 ( 866 年 ) 正 五 位 下 、 貞 観 10 年 ( 868 年 ) 従 四 位 下 と 累進 し た 。
この間 の 貞 観 8 年 ( 866 年 ) 姓 の 名 が 一族 の 祖先 で ある 多治比 古 王 に 由来 する に も かかわら ず 、 以前 丹 墀姓 に 改姓 し た こと から 、 元 の 多治比 に 戻し た 上 で 、 煩雑 さ を 避ける ため に 「 比 」 の 時 を 省略 し て 多 治 姓 へ の 改姓 を 上表 し 許さ れ て いる 。
貞 観 16 年 ( 874 年 ) 11 月 9 日 卒去 。
戒名 は 康徳 寺 殿 松屋 妙 貞 大姉 。
子 に 三枝 昌 貞 ( 守友 ) ら が いる 。
『 甲 陽 軍 鑑 』 『 寛永 諸家 系図 伝 』 に 拠れ ば 虎吉 は 子 の 昌 貞 ら と 信虎 の 代 から 仕え 、 56 騎 持 の 侍大将 で あっ た と いう 。
三枝 氏 は 武田 氏 譜代 家老 の 山県 昌 景 を 寄 親 と し 、 虎吉 嫡男 の 昌 貞 は 昌 景 の 娘 婿 に なっ た と さ れ 、 山県 姓 を 名乗っ て いる 。
嫡男 の 昌 貞 は 信玄 側近 として 仕え て いる が 長篠 の 戦い において 戦死 し 、 『 寛永 譜 』 に よれ ば 昌 貞 嫡男 の 守 吉 は 幼年 で あっ た ため 、 叔父 に当たる 昌吉 が 名代 を 務め た と いう 。
虎吉 は 天正 12 年 4 月 12 日 に 死去 し 、 近世 の 三枝 氏 は 昌 貞 嫡男 の 盛 吉 系 と 昌吉 家 の ニ 家 が 存続 し て いる 。
『 甲 陽 軍 鑑 』 『 寛永 諸家 系図 伝 』 など に よれ ば 、 三枝 氏 は 昌吉 の 父 虎吉 が 武田 家 の 足軽 大将 、 兄 の 昌 貞 ( 守友 ) は 信玄 の 近習 として 仕え て いる 。
昌 貞 は 長篠 の 戦い において 戦死 し 、 昌吉 は 父 の 虎吉 とともに 武田 滅亡 後 まで 存命 し 、 武田 滅亡 後 に 甲斐 を 領 し た 徳川 氏 に 仕え 、 虎吉 は 奉行 を 務め て いる 。
昌吉 は 昌 貞 の 遺児 守 吉 の 後見 を 務め て い た が 、 嫡男 守 昌 は 守 吉 系 と は 別に 家 を 興し て いる 。
伏見 宮 貞 成 親王 書状 案 ( 年 不詳 ) に 、 「 天王寺 妙 厳 院 領 河 州 若林 庄 」 が 代官 に 押領 さ れ た という 訴え を 受け て 貞 成 親王 が 畠山 満則 に 代官 の 狼藉 を 止め させる よう 要請 し て いる 旨 が 記載 さ れ て おり 、 室町 時代 に " 若林 荘 "( 若林 庄 ) が 存在 し た と さ れる 。
清原 秋雄 ( きよ は ら の あき お 、 弘 仁 3 年 ( 812 年 ) - 貞 観 16 年 4 月 24 日 ( 874 年 5 月 13 日 ) ) は 、 平安 時代 前期 の 貴族 。
清和 朝 に 入る と 貞 観 元年 ( 859 年 ) 左 馬頭 に 任 ぜ られ て 後 、 左 近衛 少将 ・ 右 兵衛 督 と 再び 武官 を 歴任 する 一方 で 、 但馬 介 ・ 阿波 守 ・ 大和 権守 ・ 越前 権守 と 地方 官 を 兼任 する 。
また この間 、 貞 観 5 年 ( 863 年 ) 正 五 位 下 、 貞 観 8 年 ( 866 年 ) 従 四 位 下 、 貞 観 16 年 ( 874 年 ) 従 四 位 上 と 順調 に 昇進 し た 。
貞 観 16 年 ( 874 年 ) 4 月 24 日 死去 。
晩年 は 家 塾 を 開き 、 隠居 後 に 于拙 と 号 し た ( 隠居 前 は 嵐 貞 と 号 し た ) 。
足代 弘訓 の 『 雑事 記 』 の 嘉 暦 3 年 ( 1328 年 ) の 条 に 「 鳥の子 色紙 」 の 文字 が あり 、 『 愚 管 記 』 の 延 文 元年 ( 1356 年 ) の 条 に 、 「 料紙 鳥子 」 と あり 、 さらに 伏見 宮 貞 成 親王 の 『 看 聞 日記 』 永 享 7 年 ( 1431 年 ) の 条 に も 「 料紙 ( りょう し ) 鳥子 」 の 文字 が 見える 。