仙台 米 の 江戸 へ の 輸出 が 始まっ た の は 寛永 9 年 ( 1632 年 ) で 、 明和 7 年 ( 1770 年 ) に 書か れ た 『 煙霞 綺談 』 は 「 今 江戸 三分一 は 奥州 米 なり 」 と 記述 し て いる 。
一部 の 米 は 海産物 とともに 大坂 に も 運ば れ 、 仙台 藩 は 大 坂 に 蔵屋敷 を 設置 し て い た 。
以下 に 一関 藩 を 含め た 仙台 藩 内 高 ( 1 貫 = 10 石 で 換算 ) の 変遷 を まとめる 。
以上 は 藩 内 の 租税 算出 の 基礎 と なる 内高 で の 数字 で ある が 、 寛政 9 年 ( 1797 年 ) に 書か れ た 萱場 木工 の 『 古伝 密 要 』 に よる と 、 奥州 領分 内 高 99 万 9002 石 7 斗 6 升 に対して 貢 租率 53 % の 52 万 9476 石 7 斗 6 升 2 合 8 勺 を 税収 と し 、 実際 の 米 の 収穫 高 は 税収 の 3 倍 、 雑穀 の 収穫 高 は 税収 と ほぼ 同じ で ある という 過剰 の 仮定 により 、 仙台 藩 奥州 領分 の 米 ・ 雑穀 の 実 高 合計 を 税収 の 4 倍 ( 内 高 の 2 . 12 倍 ) の 211 万 7906 石 1 斗 5 升 1 合 と 見積もっ て いる 。
この こと から 仙台 藩 の 実 高 は 200 万 ~ 250 万 石 に 達し た と する 説 が 広く 流布 し て いる が 、 これら の 数字 は 何れ も 推論 に 基づく 誇張 さ れ た 数字 で あり 、 実態 と かけ離れ て いる 。
地租 改正 後 の 旧 仙台 藩 領分 の 明治 10 年 ~ 明治 12 年 三 ヶ年 平均 農作物 米 換算 石高 は 130 万 石 ( 内 、 米 91 万 石 、 大豆 12 万 石 ( 米価 換算 で 12 万 石 相当 )、 大麦 22 万 石 ( 米価 換算 で 10 万 石 相当 ) など ) で あり 、 、 豊作 時 に 米 の 収穫 高 だけ で 内高 を 上回る こと が あっ た という の が 実態 で ある 。
しかしながら 依然として 御蔵 入地 の 割合 は 低く 、 これ が 凶作 時 など の 緊縮 財政 時 に は 大きな 負担 を 仙台 藩 に 与え た 。
仙台 藩 が 幕府 に 提出 し た 報告 書 に よれ ば 、 天明 3 年 ( 1783 年 ) 、 天明 4 年 ( 1784 年 ) に は それぞれ 56 万 5000 石 、 53 万 2000 石 の 損 毛 高 を 計上 し 、 内高 ベース で の 米 生産 高 は 平年 の 半分 で あっ た と いう 。
18 世紀 中頃 から 幕末 まで は 、 仙台 藩 の 新田 開発 は 滞り 、 ほぼ 内高 100 万 石 の まま 推移 し た 。
以下 に 一関 藩 を 含め た 仙台 藩 の 構成 別 人口 の 変遷 を まとめる 。
表 に 示す よう に 、 仙台 藩 総 人口 に 占める 武家 の 割合 は 22 ~ 25 % と 非常 に 高かっ た 。
特に 三陸 産 の 干し アワビ は 仙台 藩 領 の 気仙 郡 吉浜 村 ( 現 ・ 岩手 県 大船渡 市 ) から 名前 を 取っ て 「 吉 品 鮑 ( カッパンパオ ) 」 と 呼ば れ て い た 。
この 結果 、 陸奥 国内 の 一 円 知行 地 に 60 万 石 、 陸奥 国外 の 飛び地 として 近江 国 に 1 万 石 、 常陸 国 に 1 万 石 で 合計 62 万 石 と なり 、 これ が 幕末 まで の 仙台 藩 の 基本 的 な 石高 と なっ た 。
その後 、 常陸 国内 で 伊達 氏 所領 の 替地 が 何 度 か 行わ れ 、 正徳 2 年 ( 1712 年 ) に 下総 国 豊田 郡 内 が 組み込ま れ た こと により 、 以降 幕末 まで 本土 における 支藩 を 含む 仙台 藩 の 所領 62 万 0056 石 5 斗 4 升 ( = 1 億 1185 万 1999 リットル ≒ 9 . 3 ~ 9 . 9 万 トン ) が 確定 し た 。
文化 5 年 ( 1808 年 ) に は 幕府 は 仙台 藩 に対して も 箱 館 ・ 国後 ・ 択捉 へ の 出兵 を 命じ 、 仙台 藩 は 約 2 , 000 名 の 兵 を 派遣 し て いる 。
また 幕末 期 の 安政 2 年 ( 1855 年 ) 、 再び 幕府 は 松前 藩 領 を 除く 蝦夷 地 を 天領 と し 、 奥羽 6 藩 ( 盛岡 ・ 仙台 ・ 会津 ・ 久保田 ・ 荘内 ・ 津軽 ) に 警備 を 命じ 、 仙台 藩 は 東 蝦夷 地 の 白老 から 択捉 まで の 警備 を 担当 する こと と なっ た 。
その 際 、 仙台 藩 は 現在 の 北海道 白老 町 に 陣屋 を 置き 、 また 、 根室 ・ 厚岸 ・ 択捉 ・ 国後 に それぞれ 出張 陣屋 を 構え た 。
安政 6 年 ( 1859 年 ) 11 月 に は 白老 、 十勝 、 厚岸 、 国後 、 択捉 を 仙台 藩 の 所領 と する こと が 認め られ 、 仙台 藩 預り の 天領 の 警備 衛 地 ( 日高 、 釧路 、 歯舞 、 色丹 ) を 含む 仙台 藩 の 領地 ・ 警備 地 は 、 北海道 の 全 面積 の ほぼ 三 分の 一 を 占める こと と なっ た 。
現在 の 岩手 県 南部 ( 仙台 藩 陸奥 国領 の 面積 の 約 1 / 3 ) 、 宮城 県 全域 ( 同 2 / 3 ) 、 福島 県 浜 通り 北部 に および 、 表高 は 60 万 石 ( = 1 億 0823 万 4000 リットル ≒ 9 . 0 ~ 9 . 6 万 トン ) 。
内分 支藩 として は 、 陸奥 国内 に 岩沼 藩 ・ 一関 藩 ・ 中津山 藩 が あり 、 仙台 藩 知行 域内 に 浮かぶ 島 の よう な 形 で 存在 し た 。