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観 3 年 ( 861 年 ) 釈 奠 に際して 周 易 を 講じ た 。

観 4 年 ( 862 年 ) 正月 に 助 教 に 任 ぜ られ 、 同年 5 月 に 一族 の 愛 成 ・ 行 直 とともに 善 淵 朝臣 姓 の 賜 姓 を 受ける 。

観 6 年 ( 864 年 ) に 越後 介 を 兼ね 、 観 8 年 ( 866 年 ) に は 内 位 の 従 五 位 下 に 叙 さ れる 。

観 9 年 ( 867 年 ) 一族 の 愛 成 とともに 、 本拠 を 美濃 国 厚見 郡 から 左京 に 改める 。

観 13 年 ( 871 年 ) 太皇太后 ・ 藤原 順子 の 葬儀 に際して 、 天皇 が 祖母 で ある 太皇太后 の 喪 に 服す べき 期間 について 疑義 が 生じ て 決定 でき なかっ た ため に 、 儒者 たち に 議論 さ せ た が 、 永 は 助 教 として 大学 博士 ・ 菅野 佐 世 とともに 、 中国 の 故事 に 基づき 葬儀 が 終われ ば ただちに 服喪 を 終わら せる べき で ある 旨 を 言上 し て いる 。

また 同年 、 応天 門 の 変 による 焼亡 から 修復 し た 応天 門 の 改名 の 是非 、 応天 門 ・ 朱雀 門 ・ 羅 城門 の 名称 の 由来 について 、 明 経 博士 ・ 文章 博士 ら に 議論 が 命じ られ た 際 、 永 は 助 教 として 大学 博士 ・ 菅野 佐 世 ら とともに 、 中国 の 故事 に 基づき 魯 の 三門 ( 庫 門 ・ 雉門 ・ 路 門 ) が 日本 の 三門 ( 応天 門 ・ 朱雀 門 ・ 羅 城門 ) に 該当 する こと 、 魯 で は 天災 で 三門 が 焼失 し た 際 も 改名 し て い ない こと から 人災 により 焼失 し た 応天 門 の 名 を 改める 必要 が ない こと 、 応天 ・ 朱雀 ・ 羅 城 の 名称 は 経典 に も 記載 が ない こと を 旨 を 言上 し て いる 。

観 14 年 ( 872 年 ) 釈 奠 に際して 毛 詩 を 講じ た 。

観 18 年 ( 876 年 ) 大極殿 で 火災 が あっ た 際 、 廃朝 する こと および 群臣 が 政 に 従う こと の 是非 について 、 明 経 博士 ・ 文章 博士 ら に 議論 が 命じ られ た 際 、 永 は 助 教 ・ 船 副使 麻 呂 ら とともに 、 中国 の 故事 に 基づき 災害 の 際 に は 憂 戚 の 意 を 表す ため に 3 日間 慟哭 する こと から 紫宸殿 で 政 を 行う べき で ない こと 、 災害 の 際 に は 天皇 が 群臣 を 率い て 慟哭 する の で ある から 群臣 が 政 に 従う の は 当然 で ある 旨 を 言上 し て いる ( この 時 の 官位 は 従 五位上行大学博士兼越中守 ) 。

平子 内親王 は 叔母 に あたる ) が 傍系 親族 の 喪 に 服す べき か 明らか で なかっ た ため 明 経 博士 に 議論 が 命じ られ た 際 、 永 は 助 教 ・ 船 副使 麻 呂 ら とともに 、 『 礼 記 』 『 五経 正義 』 を 基 に 、 上皇 が 喪 に 服さ ず とも 礼 意 に 背く こと は ない 旨 を 言上 し た 。

また 同年 、 夜間 に 日食 が 発生 し た ため 、 廃 務 ( 忌日 に 朝廷 が 政務 を 停止 する こと ) を 行う こと の 是非 について 、 明 経 博士 ・ 文章 博士 ・ 明 法 博士 に 議論 が 命じ られ た 際 、 永 は 助 教 ・ 善 淵 愛 成 ら とともに 、 経書 において は 日食 や 月食 は 昼夜 関係 なく 国家 の 大 忌 で ある として 、 廃 務 す べき 旨 を 言上 し て いる 。

特に 関東 地方 で 親しま れ 、 守 漫稿 ( 食 類 - 後 巻 之 一 ) に は 「 初茸 売り 。

4 代 藩主 ・ 松平 容 の 生母 。

翌 享 保 9 年 ( 1724 年 ) 8 月 、 正 容 の 八男 ・ 容 を 産む 。

しかし 、 約 1 年 半 後 の 享 保 10 年 ( 1725 年 ) 10 月 に は 、 容 から 引き離さ れ 、 物 頭 ・ 笹原 伊三郎 忠義 の 嫡子 、 与 五右衛門 忠一 に 嫁 が さ れ た 。

3 か月 前 に 五 男 の 正 房 も 死去 し て い た ため 、 伊 知 の 産ん だ 容 が 嫡子 と なっ た 。

享 保 13 年 ( 1728 年 ) 、 容 の 袴着 の 祝い が 行わ れ た が 、 伊 知 が 生母 で ある こと を 公式 に さ れ なかっ た ため 、 祝い の 席 に は 参列 でき なかっ た 。

その 春 、 容 は 嫡子 として 江戸 に 上っ た が 、 伊 知 は 会津 に 残さ れ た 。

替わっ て 藩主 と なっ た の は 7 歳 の 容 で ある が 、 依然として 生母 と は 知らさ れ ず 、 藩主 生母 の 待遇 は 受け なかっ た 。

伊 知 の 死 を 巡っ て 、 藩主 で ある 容 に 知らせる べき か 、 幕府 に 忌服 届 を 出す べき か どう か 論議 さ れ 、 結局 、 容 は 定式 の 忌服 を 受ける こと と し 、 その 旨 を 老中 に 届け出 て 、 将軍家 から も 弔問 の 使者 が 遣わさ れ た 。

死 によって 初めて 藩主 ・ 容 の 生母 として 遇 さ れ 、 継室 に 準じる 扱い が さ れ 、 会津 院 内山 へ 埋葬 、 霊 牌 は 浄光寺 に 置か れ た 。