だが そこ へ 範 貞 が 、 逆 仁 親王 を 縛り上げ て 出 て くる 。
逆 仁 を 差し出し 降参 する から 、 太郎左衛門 も 自分 の 命 が 助かる よう 口添え し て くれ と いっ て ひれ伏す 範 貞 。
それでも 範 貞 が ためらう の を 見 て 太郎左衛門 は 首 を 討ち 落とし 、 その 刀 を すぐ に 自ら の 首 に 当て 、 我が 手 で もっ て 首 を 切り落とし 果てる 。
三 段 目 の 「 六 波 羅 館 」 で 駿河 守 範 貞 に 誉め られ て も 喜ぶ こと なく 、 三 位 の 局 の こと を 聞かさ れ て ばかばかしい と 帰ろ う と し 、 局 を 連れ て 来る よう 命じ られ て も 「 もし 三 位 の 局 、 首引き 抜い て 参れ など と の 御用 は 、 何時 にて も 仰せ付け られ 」 と いっ て 相手 に し ない 。
右 馬頭 は 範 貞 の 命令 により 、 若宮 と その 母 三 位 の 局 の 身柄 を 預かっ た 。
今度 は これ も 範 貞 の 命令 で 、 若宮 の 身柄 を 引き渡さ なけれ ば なら ない 。
そもそも 若宮 が 討た れる こと に なっ た の は 、 太郎左衛門 が 範 貞 の 前 で 燈籠 や 浴衣 の 意匠 について 悪し 様 に 説明 し た から で あっ た 。
だが 局 を 預け て い た 右 馬頭 は 、 この 燈籠 や 浴衣 に 込め られ て い た 意味 について 知っ て い た の か 、 知ら なかっ た の か 、 いずれ に し て も 身柄 を 預け て おき ながら 「 監督 不行届き 」 で 範 貞 を 激怒 さ せ た 。
貞 観 2 年 ( 860 年 ) 左京 大夫 に 任 ぜ られる が 、 間もなく 大和 守 と 再び 地方 官 に 転じ 、 貞 観 4 年 ( 862 年 ) に は 従 四 位 下 に 叙 さ れ て いる 。
貞 観 5 年 ( 863 年 ) 短期間 左 中 弁 を 務める が 、 間もなく 大和 守 に 復し た 。
また 、 貞 観 6 年 ( 864 年 ) 仁明天皇 の 女御 ・ 藤原 貞子 ( 藤原 三 守 の 娘 ) が 薨去 し た 際 に は 葬儀 を 監護 し た 。
貞 観 7 年 ( 865 年 ) 越前 守 に 任 ぜ られる 。
貞 観 13 年 ( 871 年 ) 9 月 6 日 卒去 。
貞 観 5 年 ( 863 年 ) 従 五 位 上 に 叙 さ れる 。
斉 衡 3 年 ( 856 年 ) 従 五 位 上 ・ 陸奥 守 に 叙任 さ れる が 、 貞 観 3 年 ( 861 年 ) に 陸奥 守 が 秩満 し た 際 に 新任 者 の 坂上 当 道 と の 解 由 が うまく 進ま す 、 期限 内 に 不 与 解 由 状 が 発行 さ れ なかっ た ため 記事 ・ 葛木 種 主 とともに 公事 稽留 罪 を 科せ られ た 。
その後 の 貞 観 5 年 ( 863 年 ) 下総 守 に 任官 する 。
貞 観 9 年 ( 867 年 ) 10 月 3 日 、 主 帳 ・ 村部 福雄 とともに 姓 を 村部 から 本姓 の 久米 連 に 復する 。
北 漢 山南 側 北岳 トンネル の 近く に あり 、 東 は 城北 区 貞 陵 3 洞 と 貞 陵 4 洞 、 西 に 恩 平 区 仏 光 1 洞 と 西 大門 区 弘 恩 1 洞 、 南 は 付 岩 洞 と 城北 区 城北 洞 、 北 は 恩 平 区 津 寛 洞 と 京畿 道 高 陽 市 徳陽 区 孝子 洞 と 接し て いる 。
同 資料 に よれ ば 、 同館 は 東宝 中央 劇場 と 名称 を 変更 し て おり 、 当時 の 同館 の 経営 は 大石 興行 部 ( 大石 貞 七 ) 、 支配人 は 1930 年 から 変わら ず 倉永 義雄 が 務め 、 観客 定員 数 が 800 名 に 減っ て いる 。
佐方 貞 人 シリーズ の 第 3 作 目 で あり 、 前作 『 検事 の 本懐 』 と 同じく 佐方 貞 人 が 検事 として 関わっ た 話 が 集め られ て いる が 、 描か れ て いる の は 前作 の 1 〜 2 年 後 の 佐方 が 30 歳 頃 の 姿 で ある 。