この 区間 で は 、 広瀬川 によって 古い 段丘 面 ( より 標高 が 高い ) から 台原 段丘 - 青葉山 段丘 、 仙台 上町 段丘 、 仙台 中町 段丘 、 仙台 下町 段丘 の 4 つ に 大きく 分け られる 段丘 を 形成 し て いる 。
しかし 、 江戸 時代 に 伊達 氏 が 居城 に し た 仙台 城 は 、 広瀬川 中流 の 右岸 に ある 青葉山 に 築か れ 、 川 を 第一線 の 守り に し た 。
この ため 、 仙台 城下町 は この 水 の 乏しい 河岸 段丘 の 原野 に 開か れる こと に なり 、 数 万 の 人々 が 生き て いく ため に 必要 な 井戸水 を 供給 する 地下 水 の 利水 が 重要 に なっ た (→# 利水 参照 ) 。
後 に 仙台 城下町 を 基盤 に 仙台 市 都心 部 が 築か れ て いく が 、 1923 年 ( 大正 12 年 ) の 市営 上水道 の 給水 開始 以降 、 井戸水 で 支え られる 人口 以上 の 都市 化 が 実現 する 。
仙台 城 と 仙台 城下町 および 若林 城 と 若林 城下町 の 建設 に は 建材 として 大量 の 材木 が 必要 で あっ た が 、 材木 を 城下 に 運ぶ 経路 の 1 つ として 広瀬川 が 用い られ た 。
幕末 に 広瀬 川中 流域 で 亜炭 が 発見 さ れ て 以降 、 家庭 で の エネルギー として 亜炭 の 比率 が 上がっ て いく が 、 エネルギー 革命 により 亜炭 採掘 も 貯木 場 も 1950 年代 に 終わり を 告げ た ( → 仙台 亜炭 参照 ) 。
上流 から 、 作並 川 、 熊ヶ根 川 、 野川 、 愛子 川 、 郷六 川 、 仙台 川 、 長町 川 、 若林 川 で ある 。
ここ で いう 仙台 川 は 、 仙台 市 の 北部 を 流れる 現代 の 仙台 川 と は 別もの で ある 。
明治 に なっ て 文明開化 の 波 が 仙台 に も 及ぶ と 、 牛乳 や 牛肉 の 需要 が 興り 、 広瀬川 中流 の 下町 段丘 で は 牧場 が 営ま れる よう に なっ た 。
高度 経済 成長 で 大 資本 の 乳業 会社 が 仙台 に も 進出 し た こと や 、 周辺 の 宅地 化 の 影響 も あっ て 、 昭和 40 年代 末 に は 牧場 は 姿 を 消し 、 放牧 も 行わ れ なく なっ た 。
仙台 市 は 1974 年 ( 昭和 49 年 ) に 「 広瀬川 の 清流 を 守る 条例 」 を 制定 し て 川 沿い の 土地 建物 の 変更 や 土 ・ 木 の 採取 、 川 へ の 排水 に 規制 を 加え 、 あわせ て 下水道 の 整備 に 努め た 。
江戸 時代 の 四ツ谷 用水 の 取水 口 で 、 当時 は この 水 が 仙台 城下町 に 張り巡らさ れ 主 に 浅 層 地 下水 を 涵養 し 、 冬季 の 乾燥 による 井戸 枯れ を 防い で い た 。
現在 は 、 梅田 川 を 越え て 大梶 浄水 場 に まで 水 を ひき 、 仙台 市 と 塩竈 市 で 工業 用 に 利用 さ れ て いる 。
青 下川 も 仙台 の 水道 源 で ある 。
広瀬 川中 流域 の うち 、 仙台 市 都心 部 の 西端 から 南端 を 流れる 部分 で は 、 広瀬川 は 大きく 蛇行 する 。
花壇 橋 ( か だ ん ば し ) は 、 江戸 時代 初期 、 17 世紀 前 葉 に 仙台 の 広瀬川 に かかっ て い た 橋 で ある 。
今 の 宮城 県 仙台 市 青葉 区 の 花壇 と 川内追廻 と を 結ん で い た 。
仙台 城 の 大手 門 に 直結 する 仙台 橋 ( 大橋 ) から みる と 、 花壇 橋 は 数 百 メートル 川下 に あっ た 。
追廻 は 、 仙台 城 本丸 の ある 青葉山 の 麓 で 、 広瀬川 に 面し た 東西 に 細長い 地区 で ある 。
泰平 が 続い て 軍事 の 重要 性 が 低下 し た こと 、 この 頃 仙台 城 に 二の丸 が 造ら れ て 政治 機能 が そちら に 移り 、 本丸 の 重要 性 が 低下 し た こと が 原因 で あろ う 。