中世 文学 研究 者 の 石田 吉 貞 に よる と 「 わび 」 は 隠者 生活 の 物質 的 側面 、 わびしい 質朴 さ を 基調 と する もの から 出 、 「 さび 」 は 前述 し た よう に 無常 を もの の 中 に 見出し そこ に 美 を 感じ取る もの で ある と いう 。
俗名 は 良 岑 宗 貞 ( よし みね の むね さ だ ) 。
花山 の 元 慶寺 を 建立 し 、 貞 観 11 年 ( 869 年 ) 紫野 の 雲林院 の 別当 を 兼ね た 。
江戸 時代 に 製作 さ れ た 歌舞伎 舞踊 『 積 恋 雪 関 扉 』 で は 良 岑宗 貞 の 名 で 登場 。
貞 観 年間 ( 859 年 - 877 年 ) に 左 近衛 中将 を 兼任 し 、 参議 に 任 ぜ られ て 公卿 に 列する 。
貞 観 8 年 ( 866 年 ) 、 応天 門 の 炎上 の 際 し 大納言 伴 善男 が 左大臣 源信 を 誣告 し 、 右大臣 藤原 良相 が 左 近衛 中将 で あっ た 基 経 に 逮捕 を 命じる も 、 基 経 は これ を 怪しみ 養父 の 良 房 に 告げ 、 良 房 の 尽力 によって 信 は 無実 と なっ た 。
貞 観 12 年 ( 870 年 ) 大納言 に 転じる 。
貞 観 14 年 ( 872 年 ) 右大臣 を 拝する 。
貞 観 18 年 ( 876 年 ) 清和 天皇 は 貞明 親王 に 譲位 ( 陽成 天皇 ) 。
また 、 正室 について は 、 上述 の 織田 信良 の 娘 ・ 昌子 が 定説 で ある が 、 極楽寺 ( 高崎 市 ) に は 、 忠長 の 墓碑 と共に 「 承 應 三 年 正月 廿 一 日 二 世 神 女 清月 彌勒 院 内儀 松 誉 春 貞 大姉 徳川 忠長 正室 俗名 吉井 庚 子 五 十 五 才 」 と 記さ れ た 墓碑 が ある 。
菅谷 勝 貞 ( すげ の や かつ さだ 、 生年 不詳 - 天正 3 年 ( 1575 年 ) ) は 小田 氏 の 重臣 。
菅谷 政 貞 は 子 。
智勇 兼備 の 武将 で 、 1516 年 に 土浦 城 を 攻撃 し 、 信太 範 貞 を 置く が 病死 し 、 代わっ て そこ の 城主 と なっ た 。
安倍 貞 任 ( あ べ の さだ とう ) は 、 平安 時代 中期 の 武将 。
厨川 柵 主 として 、 安倍 厨川 次郎 貞 任 とも 。
登 任 の 後任 として 源頼義 が 翌 永 承 7 年 ( 1052 年 ) に 赴任 する と 、 後冷泉天皇 祖母 ・ 上東門院 ( 藤原 彰子 ) の 病気 快癒 祈願 の ため に 大赦 が 行わ れ 、 安倍 氏 も 朝廷 に 逆らっ た 罪 を 赦さ れる こと と なっ た が 、 天 喜 4 年 ( 1056 年 ) に 、 阿久 利 川 において 藤原 光貞 の 営舎 が 襲撃 さ れる 阿久 利 川 事件 が 起こる と 、 頼義 は 事件 の 張本人 と 断定 さ れ た 貞 任 の 身柄 を 要求 し 、 父 の 頼 時 が これ を 拒絶 し て 再び 開戦 と なる 。
天 喜 5 年 ( 1057 年 ) 、 安倍頼時 が 戦死 し た ため 貞 任 が 跡 を 継ぎ 、 弟 の 宗 任 とともに 一族 を 率い て 戦い を 続け た 。
以後 、 衣川 以南 に も 進出 し て 、 勢威 を 振るっ た が 、 康平 5 年 ( 1062 年 ) 7 月 、 国府 側 に 清原 氏 が 頼義 側 に 加勢 し た ので 形勢 逆転 で 劣勢 と なり 、 安倍 氏 の 拠点 で あっ た 小松 柵 、 ・ 衣川 柵 ・ 島 海 柵 が 次々 と 落とさ れ 、 9 月 17 日 に は 厨川 柵 の 戦い で 貞 任 は 敗れ て 討た れ た 。
深手 を 負っ て 捕らえ られ た 貞 任 は 、 巨体 を 楯 に 乗せ られ 頼義 の 面前 に 引き出さ れ た が 、 頼義 を 一瞥 し た だけ で 息 を 引き取っ た と いう 。
『 今昔 物語 』 に は 、 安倍頼時 ( 貞 任 の 父 ) は 陸奥 国 の 奥 に 住む 「 夷 」 と 同心 し た ため 源頼義 に 攻め られ 、 貞 任 ・ 宗 任 兄弟 ら は 一族 とともに 「 海 の 北 」 ( 北海道 ) に 船 で 渡り 河 の 上流 を 30 日 余り 遡っ た 当たり で 「 湖 国 の 人 」 の 軍勢 に 遭遇 し た 、 と 伝え られ て いる 。