ボイェリ の 被 任命 者 マテイ・バサラブ は 、 1653 年 の フィンタ の 戦い ( モルダヴィア 公 ヴァシレ・ルプ を 打ち 負かし た ) を 除け ば 、 ワラキア 公 として 比較的 長い 平和 な 時代 を もたらし た ( 1632 年 - 1654 年 ) 。
この 抗争 は 1680 年代 まで ワラキア 史 を 特徴 づけ た 。
カンタクジノ 家 は 、 同盟 を 結ん で い た バレアヌ 家 と ギカ 家 に 脅かさ れ 、 アントニエ・ヴォダ や ゲオルゲ・ドゥカ といった カンタクジノ 家 が 選ん だ ワラキア 公 の 背後 に 回っ て 支援 し 、 後 に は 同族 から ワラキア 公 を 出し た 。
1678 年 から 10 年間 ワラキア 公 で あっ た シェルバン・カンタクジノ で ある 。
ワラキア は 1690 年 前後 の 大 トルコ 戦争 の 終盤 、 ハプスブルク 帝国 ( オーストリア ) へ 侵入 する ため の 標的 と なっ て いっ た 。
当時 、 ワラキア 公 コンスタンティン・ブルンコヴェアヌ は 秘密 裡 に そして 失敗 に 終わっ た ものの 、 反 オスマン 連合 と 交渉 し て い た 。
ブルンコヴェアヌ の 政略 が 非難 さ れ た に も かかわら ず 、 ワラキア 公 シュテファン・カンタクジノ も 反 オスマン 帝国 に 回り ハプスブルク 家 の 計画 に 加わり 、 プリンツ・オイゲン 率いる オーストリア 軍 に対し ワラキア を 通過 できる よう に し た 。
シュテファン・カンタクジノ の 廃位 に 伴い 、 オスマン 帝国 は 速やか に 、 単なる 形式 上 の ワラキア 公 選挙 制度 を やめ た ( 既に 当時 、 スルタン の 決定 を 超える よう な 国民 議会 の 重要 性 は 衰え て いる こと を 示し て い た ) 。
ワラキア 、 モルダヴィア 両 公国 の 君主 は イスタンブル の ファナリオティス の 中 から 任命 さ れ て い た 。
モルダヴィア で は ディミトリエ・カンテミール 公 以降 、 ニコラエ・マヴロコルダト によって 始まり 、 ファナリオティス 支配 は 1715 年 に ワラキア へ も 導入 さ れ た 。
同時に 、 ワラキア は オスマン 帝国 対 ロシア 、 または 対 ハプスブルク の 戦争 の 連続 で 、 戦場 と なっ て いっ た 。
オルテニア は 1739 年 の ベオグラード 条約 によって ワラキア へ 復帰 し た ( 1737 年 から 1739 年 にかけ 起こっ た ロシア ・ オーストリア ・ トルコ 戦争 の 結果 ) 。
ワラキア 公 コンスタンティン・マヴロコルダト は 国境 における 新た な 変化 を 取り締まり 、 彼 は 1746 年 に 農奴 制 の 廃止 を 遂行 し た ( これ に は 、 重い 負担 に あえぐ 農民 が 隣国 の トランシルヴァニア へ 大量 移住 する の を 止める 目的 が あっ た ) 。
露 土 戦争 ( 1768 年 - 1774 年 ) 最中 の 1768 年 , ワラキア は ロシア による 最初 の 占領 下 に あっ た ( ワラキア の ボイェリ で 、 ロシア 帝国 軍 の 士官 で あっ た 反 トルコ の 首領 、 プルヴ・カンタクジノ の 反乱 によって ロシア は 占領 する の に 有利 で あっ た ) 。
当時 、 比較的 国内 は 安定 し て おり 、 開か れ た ワラキア は さらに ロシア の 干渉 を 受ける よう に なっ た 。
露 土 戦争 ( 1787 年 - 1792 年 ) の 最中 、 フリードリヒ ・ フォン ・ ザクセン = コーブルク = ザール フェルト 率いる ハプスブルク 軍 が ワラキア へ 入国 し 、 1789 年 に ワラキア 公 ニコラエ・マヴロゲニ を 退位 さ せ た 。
パズヴァントグル は 強力 で 反逆 的 な パシャ で 、 ワラキア 公 コンスタンティン・ハンゲルリ が 起こし た 反乱 に 実際 に 加わっ て い た ( ハンゲルリ は 反逆 罪 の 容疑 で 1799 年 に 処刑 さ れ た ) 。
1806 年 、 露 土 戦争 ( 1806 年 - 1812 年 ) は 在 ブカレスト の ワラキア 公 コンスタンティン・イプシランティ の 御前 会議 の 決定 によって 部分 的 に 扇動 さ れ て い た 。
これ に は キュチュク・カイナルジ 条約 の 効果 が みてとれる ( ワラキア 及び モルダヴィア で 構成 さ れる ドナウ 公国 で は ロシア の 政治 的 影響 力 に対して 許容 的 な 姿勢 が み られ た ) 。
この 戦争 で 、 ワラキア は ミハイル・アンドレイェヴィチ・ミロラドヴィチ 将軍 率いる ロシア 軍 に 占領 さ れ た 。