1500 年代 に 入る と ボローニャ 大学 で 体系 立て た 解剖 学 の 研究 が 始め られ 、 1543 年 、 アンドレアス・ヴェサリウス は 実際 に 解剖 し て 見 た もの を 詳細 に 著し た “ De humani corporis fabrica ” ( 人体 の 構造 ) を 出版 し 、 近代 解剖 学 の 基礎 を 築い た 。
日本 の 歴史 において 最初 の 人体 解剖 は 『 日本書紀 』 第 十 四 巻 に ある 、 雄略天皇 の 命 によって 行わ れ た 稚 足 姫 皇女 の 解剖 が 最初 と さ れる 。
ただし これ は 一種 の 法 医 解剖 で あり 、 系統 的 な 解剖 で は なかっ た { sfn | 石出 猛 史 | 2008 | pp = 221 }。
その後 、 701 年 に 成立 し た 大宝 律令 で は 解剖 の 禁止 が 明文化 さ れ た と 言わ れ て いる が 、 原文 は 残存 し て い ない ため 詳細 は 不明 で ある { sfn | 石出 猛 史 | 2008 | pp = 221 }。
その後 の 日本 史 において 、 解剖 が 行わ れ た の は 江戸 時代 に なっ て から の こと で ある 。
京都 の 医学 者 山脇 東洋 は 、 人体 の 解剖 が 医学 にとって 不可欠 で ある と 考え 、 師 の 後藤 艮 山 に 相談 し た 。
後藤 は この 時 「 腑分 は 官 の 制する ところ にて ( 解剖 は 幕府 が 決める こと ) 」 という 回答 を 行っ た が 、 幕府 が 明示 的 に 解剖 を 禁止 し た 法令 は 確認 さ れ て い ない { sfn | 石出 猛 史 | 2008 | pp = 222 }。
ともかく 山脇 は 当局 の 許可 を 得 、 宝 暦 4 年 ( 1754 年 ) 閏 2 月 7 日 に 京都 の 刑場 で 刑死 者 の 解剖 を 行っ た 。
その後 、 明和 4 、 5 年 ( 1767 年 、 1768 年 ) に は 東洋 の 子 の 玄 侃 が 、 7 年 ( 1770 年 ) に 荻野 元 凱 、 河田 信任 など が 、 刑 屍 を 解剖 し た 。
明和 8 年 ( 1771 年 ) 3 月 4 日 前野 良沢 、 杉田 玄白 など が 小塚原 で 解剖 を 行なっ た 。
寛政 5 年 ( 1793 年 ) に 晁 俊章 が 、 8 年 ( 1796 年 ) に 柚木 太 淳 が 、 10 年 ( 1798 年 ) 施薬 院 三 雲 が 、 刑 屍 の 解剖 を 行なっ て 記録 を 残し た 。
呉 秀三 に よれ ば 、 山脇 東洋 の 宝 暦 4 年 ( 1754 年 ) の 解剖 から 、 田代 万 貞 、 半井 仲 庵 など が 文久 元年 ( 1861 年 ) 福井 で 行なっ た 解剖 まで 、 記録 に 残さ れ た 解剖 は 34 例 で あっ た と いう 。
解剖 が 系統的 に 行なわ れる 様 に なっ た の は 明治 3 年 ( 1870 年 ) 以後 で ある 。
長谷川 泰 、 石黒 忠悳 ら は 大学 東 校 から 解剖 の こと を 弁 官 に 申請 し 、 裁可 を 得 た 。
同月 27 日 に 清三郎 の 死体 が 第 一 号 として 解剖 さ れ 、 12 月 まで に 52 体 集まっ た 。
ただし 、 明治 2 年 ( 1869 年 ) に 田口 和美 により 井上 美 幾 女 の 死体 が 解剖 さ れ た 事 が あり 、 その 墓 は 東京 白山 の 念 速 寺 に ある 。
一部 の 学校 や 学校 の 生物 部 連盟 で は 解剖 実習 が 行わ れ て いる が 、 小中学校 で の 実技 的 解剖 の 授業 は あまり 行わ れ なく なっ た 。
その 大きな 理由 として 、 生徒 の 解剖 に対する イメージ の 低 さ 、 また 「 気持ち 悪い 」 「 血 を 見 たら 吐い て しまう 」 など という こと も 関係 し て いる 。
この 解剖 に対して は 様々 な 意見 が あり 、 賛成 意見 として は 「 解剖 を やる こと によって 生命 の 大切 さ や 動物 の 内臓 構造 が わかる 」 など という 意見 と 、 それ と は 逆 の 「 解剖 を やる こと は 生命 の 冒涜 だ 」 など という 意見 も ある 。
解剖 という もの は マウス など だけ で は なく 、 市販 の 魚類 や 軟体動物 類 、 甲殻 類 など で も 行う こと が できる 。