この ため 、 宗家 の 地位 を 失っ た 胤 貞 流 の 千田 氏 は その後 衰退 し 、 肥前 国 に 在っ た 宗 胤 の 次男 胤 泰 が 九州 千葉 氏 を 興す 事 に なっ た 。
高 吉 は 父 の 高 清 に 寵愛 さ れ 、 兄 の 高 延 と 家督 を 争っ た が 、 浅見 貞 則 や 浅井 亮政 を 始め と する 国人 達 の 支持 を 受け た 高 延 に 敗れ 、 追放 さ れ た 。
大友 宗麟 は 8 月 に なっ て も 勝報 が 届か ない こと に 業 を 煮やし 、 城 攻め の 大将 と し 弟 の 大友 親 貞 を 3 , 000 の 兵 で 前線 に 送り出し 親 貞 に 総 攻撃 命令 を 下し た 。
17 日 に は 親 貞 は 佐 嘉 城 の 北 に 位置 する 今山 に 布陣 し た 、 北側 に 布陣 する 大友 の 兵 は 3 万 に 達し て い た が 親 貞 は 占い の 凶兆 を 気 に し 直ちに 総 攻撃 に は 踏み切ら ず 、 8 月 20 日 をもって 佐 嘉 城 に 総 攻撃 を 開始 する こと を 決定 する 。
ところが 総 攻撃 の 前日 の 夜 、 親 貞 は 今山 の 本陣 で 勝利 の 前祝い として 酒宴 を 開き 、 軍 の 士気 を 緩め て しまう 。
未明 、 直 生 は 敵陣 に 鉄砲 を 撃ち かけ 「 寝返っ た 者 が 出 た 」 と 虚報 を 流し て 大 友軍 を 大 混乱 に 陥れる と 、 同士 討ち を 始め た 軍 中 で 手薄 に なっ た 親 貞 の 本陣 に 突入 し 、 大友 親 貞 を 討ち取っ て 退却 する 。
近年 で は 、 『 保 元 物語 』 現存 伝 本中 、 もっとも 古 態 を とどめ て いる と 思わ れる 半井 本 など に 、 貞 応 2 年 ( 1223 年 ) 、 ないしは 3 年 の 成立 で ある 『 六 代 勝 事 記 』 の 文章 が 引か れ て いる と する 弓削 繁 の 論 など によって 、 承 久 の 乱 以降 の 成立 と みる 見方 も あらわれ て いる 。
為 義 の 息子 の なか で 唯一 逃げ延び て い た 為朝 も 、 温泉 で 養生 し て いる ところ を 平家 貞 に 発見 さ れ 、 丸腰 の ところ を 捕らえ られ て しまう 。
ただし 、 『 兵 範 記 』 保 元 元年 8 月 27 日 の 記事 で は 為朝 を 捕縛 し た 平家 貞 が 特別 に 恩賞 に あずかっ て おり 、 為朝 が 崇徳院 に 味方 し た 武士 の なか でも 特別 な 存在 で あっ た と みなさ れ て い た 可能 性 は 高い 。
岩城 貞 隆 ( いわき さ だ たか ) は 、 安土 桃山 時代 から 江戸 時代 前期 の 大名 。
佐竹 家 は 減 封 で 済ん だ が 、 貞 隆 は 全て の 所領 を 没収 さ れ た 。
この 不当 な 仕打ち に対して 、 貞 隆 は 義宣 に 挙兵 まで 促し た が 拒絶 さ れ た 。
貞 隆 は 妻 の 実家 の 相馬 家 が 再興 し た こと に 希望 を 見出し 、 自ら も 岩城 家 再興 を 願う べく 江戸 に 登っ て 浅草 で 浪人 し 、 再興 運動 に 尽瘁 、 飯野 八幡宮 に 度々 祈願 し た 。
領土 召し上げ に 伴い 、 多く の 家臣 が 離散 し た が 、 『 岩城 貞 隆 浅草 御浪 人中 随身 諸 士 名 元 覚 』 ( 1625 年 ) に ある 四 十 二 士 が 我が身 を 省み ず 随従 し た 。
貞 隆 の 次兄 義広 が 当主 で あっ た 蘆 名 氏 の 一族 と 伝わる 天海 も 貞 隆 を 援助 し て 斡旋 を 行い 、 岩城 家 再興 に 寄与 し た と いう 。
関ヶ原 の 戦い 後 は 齟齬 を 来し て い た 義宣 とも 実母 の 仲介 によって 和解 し 、 和解 後 、 義宣 は 資金 面 など で 貞 隆 の 御家 再興 に 積極 的 に 援助 を 行っ た 。
寛永 2 年 ( 1625 年 ) に 記さ れ た 『 岩城 貞 隆 浅草 御浪 人中 随身 諸 士 名 元 覚 』 に は 、 浅草 浪人 中 の 貞 隆 に 随従 し た 家臣 ・ 四 十 二 士 の 名 が ある 。
藤原 良 房 ( ふじ わら の よし ふさ 、 延 暦 23 年 ( 804 年 ) - 貞 観 14 年 9 月 2 日 ( 872 年 10 月 7 日 ) ) は 、 平安 時代 初期 の 公卿 。
『 公卿 補任 』 で は この 時 に 摂政 に 就任 し て 貞 観 6 年 ( 864 年 ) 清和 天皇 の 元服 とともに 、 摂政 を 退い た と する が 、 正史 で ある 『 日本 三 代 実録 』 の 清和 天皇 即位 の 記事 に は 摂政 に関する 記述 が ない こと から 、 良 房 は 太政大臣 として 天皇 を 後見 し た と 考え られ て いる ( 当時 、 太政大臣 の 職掌 に は 摂政 と 同様 に 天皇 の 後見 する 役目 が 含ま れ て おり 、 当時 皇族 しか 就け なかっ た 摂政 の 職務 を 太政大臣 として 行っ て い た 可能 性 が ある 。
貞 観 8 年 ( 866 年 ) に 起き た 応天 門 の 変 で は 、 大納言 伴 善男 を 失脚 さ せ 、 事件 に 連座 し た 大伴 氏 、 紀 氏 の 勢力 を 宮中 から 駆逐 する 。