寛永 18 年 ( 1641 年 ) から は 政 宗 の 十 男 で 仙台 藩 第 2 代 藩主 忠 宗 の 異母弟 の 宗勝 の 領地 と なる 。
万 治 3 年 ( 1660 年 ) に 、 宗勝 は 3 万 石 の 分 知 を 受け て この 地 に 陣屋 を 置き 、 仙台 藩 の 内分 分 知 大名 として の 一関 藩 が 正式 に 立 藩 し た 。
この 年 は 、 仙台 藩 で 事件 が 起こっ た 年 で あっ た 。
仙台 藩 の 主導 権 は 宗勝 の 下 に あり 、 宗勝 は 自ら の 専断 に 反対 する 派閥 を 徹底 し て 弾圧 し た 。
一関 藩 は 改易 と なり 、 その 領地 は 仙台 藩 に 収 公 さ れ て 家臣 も 仙台 藩 に 帰属 し た 。
明治 元年 ( 1868 年 ) の 戊辰戦争 で は 、 一関 藩 は 仙台 藩 に従い 奥羽 列藩 同盟 に 参加 、 後 に 仙台 藩 とともに 明治 政府 へ 降伏 し た 。
田村 氏 一関 藩 は 、 仙台 藩 から 3 万 石 を 幕府 の 命令 によって 分 知 さ れ て 成立 し た 藩 で ある 。
上述 の よう に 譜代 並 の 役目 を 務め た 一関 藩 で ある が 、 それ ゆえ に 仙台 藩 から 独立 へ の 牽制 を 常に 受け て い た 。
一関 藩 は 、 将軍家 から 直接 領地 朱印 状 や 領地 判 物 を 交付 さ れ て おら ず 、 幕府 から 仙台 藩 へ の 領地 判 物 に 内分 する もの として 記載 さ れ て いる に 過ぎ なかっ た 。
仙台 藩 の 干渉 の 始まり は 、 大名 取立 から 間 も ない 寛文 2 年 ( 1662 年 10 月 ) に あり 、 「 領内 仕置 六 ヶ条 」 により 、 領内 で の 仙台 藩 以外 の 制札 が 禁止 さ れ た 。
これ により 、 自主 的 な 法令 を 公布 する こと が 不可能 に なり 、 仙台 藩 の 基本 方針 を 踏襲 する こと を 強制 さ れる 。
また 、 一 関所 替 後 の 所領 は 北上川 に 二分 さ れ て い た が 、 二分 さ れ た 一関 藩 領 の 間 に は 仙台 藩 領 の 村落 が 10 余 村 あり 、 一関 藩 は 政治 と 経済 とも に 仙台 藩 の 影響 下 に 置か れ た 。
藩 職 に 仙台 留守居 役 が 設置 さ れ 、 須原 屋 武鑑 でも 仙台 藩 の 支藩 扱い で あっ た 。
以上 の よう に 仙台 藩 と の 従属 的 関係 が あっ た 一方 、 大名 級 の 知行 地 を 持つ 仙台 藩 内 の 一門 衆 や 新田 分 知 と 異なり 、 独自 の 家臣 団 と 徴税 機構 を 有し 、 年貢 米 など の 直接 徴収 が 可能 だっ た という 点 で は 比較的 自立 し て い た 。
前述 の とおり 、 一関 藩 は 仙台 藩 の 基本 方針 に 従わ ね ば なら ず 、 増税 も また 一存 で は 行わ れ なかっ た 。
特に 寛政 9 年 ( 1797 年 ) に は 仙台 藩 において 大 規模 一揆 が 発生 し 、 一揆 の 再発 を 防ぐ ため に 仙台 藩 の 締め 付け は ますます 厳しい もの と なっ た 。
残さ れ た 収入 増 の 方法 として 、 裕福 な 百姓 と 町人 から の 寄付 、 御 用金 と 、 仙台 藩 から の 財政 援助 が たびたび あっ た が 、 根本 的 な 財政難 の 解消 に は 至ら なかっ た 。
当然 ながら 、 面 扶持 制 において は 家格 の 高い 家臣 ほど 減給 率 が 高く なる ため 不満 が 高まり 、 藩政 批判 を 仙台 藩 や 幕府 に 訴え た 20 名 も の 家臣 が 処罰 さ れ た 。
明治維新 後 に 磐井 郡 19 村 ( 旧 仙台 藩 領 、 沼田 藩 取締 地 ) 、 胆振 国 白老 郡 が 加わっ た 。
台原 駅 ( だい の はらえ き ) は 、 宮城 県 仙台 市 青葉 区 台原森林公園 に ある 、 仙台 市 地下鉄 南北 線 の 駅 で ある 。