公 が 統治 し て い た 国 は ルー シ 諸国 の 他 に ポーランド 王国 以前 の ポーランド や 、 ルーマニア に 統合 さ れる 以前 の ワラキア 、 モルダヴィア など が 挙げ られる が 、 いずれ も 国際 的 に 「 国王 」 という 地位 の 承認 を 受ける まで に 至っ て い なかっ た 小国 の 君主 が 公 ( princeps ) の 称号 を 名乗っ て い た 例 で ある 。
ワラキア 公 ヴラド 3 世 ( Vlad III , 1431 年 11 月 10 日 - 1476 年 12 月 19 日 ) 、 通称 ドラキュラ 公 ( Vlad Drăculea ) または 串刺し 公 ( Vlad Țepeș / Kazıklı Bey ) は 、 15 世紀 の ワラキア 公国 の 君主 。
諸侯 の 権力 が 強かっ た ワラキア に あっ て 中央 集権 化 を 推し進め 、 オスマン 帝国 と 対立 し た 。
1436 年 、 父 ドラクル が ワラキア 公 と なり 、 バルカン半島 へ と 進出 を 続ける オスマン 帝国 に対し 、 ハンガリー と は 緊張 関係 を 孕み つつ も 共に 断続 的 に と 交戦 し た 。
1444 年 に ヴァルナ の 戦い で ワラキア を 含む バルカン半島 の 諸侯 連合 軍 で ある ヴァルナ 十字軍 が オスマン 帝国 に 敗北 し 、 ワラキア は オスマン 帝国 に 臣従 を 余儀なく さ れ 、 ヴラド 3 世 は 弟 の ラドゥ ( 美男 公 ) とともに オスマン 帝国 の 人質 と なっ た 。
ハンガリー の 有力 者 フニャディ・ヤーノシュ は ダネシュティ 家 の ヴラディスラフ ( ヴラド 3 世 の 又従兄弟 ) を 支持 し 、 これ を ワラキア 公 と し た 。
対し 、 ヴラド 3 世 は ワラキア 支配 を もくろむ オスマン 帝国 の 支援 で 、 ヴラディスラフ を 排除 し ワラキア 公 の 座 に 就い た 。
1456 年 に ハンガリー を 無視 し て 独立 を 果たそ う と する ヴラディスラフ を 疎ん じ た フニャディ・ヤーノシュ の 支援 の 下 で 3 世 は 再び ワラキア 公 に 返り咲く 。
1459 年 、 ヴラド 3 世 は ワラキア 領内 の 大 貴族 を 打倒し て 権力 を 掌握 し て 中央 集権 化 を 進め 、 公 の 直轄 軍 を 編成 し 、 さらに オスマン 帝国 へ の 貢 納 を 拒否 する 。
オスマン 帝国 が ワラキア 公国 に 使者 を 派遣 し て 貢 納 を 要求 する と 、 ヴラド は 使者 を 生き た まま 串刺し 刑 に する 。
その後 オスマン 帝国 の スルタン 、 メフメト 2 世 は 大軍 を 率い て ワラキア に 何 度 か 侵攻 し た が 、 兵力 に 劣る ヴラド 3 世 は ゲリラ 戦 と 焦土 作戦 で もっ て 激しく 抵抗 し 、 その 都度 撃退 する 。
1462 年 の 戦い (: en : The Night Attack of Târgovişte ) で ヴラド 3 世 は 、 メフメト 2 世 の 首 を 標的 と し た 夜襲 を ワラキア の 首都 トゥルゴヴィシュテ 城 外 に 敢行 し て オスマン 帝国 軍 の 多数 を 殺傷 する も 、 イェニチェリ の 激しい 抵抗 に あっ て メフメト 2 世 を 殺す こと は でき なかっ た 。
その後 、 入城 し た メフメト 2 世 を 待っ て い た の は 、 ヴラド 3 世 による 大量 の オスマン 帝国 兵 の 串刺し の 林 で あり 、 それ を 見 て 戦意 を 失っ た メフメト 2 世 は ワラキア を 撤退 し た 。
この間 、 カトリック教 国 から の 支援 を 得よ う として 正教会 から カトリック に 改宗 し 、 マーチャーシュ 王 の 妹 と 結婚 し た が 、 この 改宗 によって 彼 は 東方 正教 中心 で あっ た ワラキア の 民衆 の 人心 を 失っ た 。
1476 年 、 ヴラド 3 世 は 3 度目 の ワラキア 公 に 返り咲く も 、 同年 ( 1477 年 説 も ある ) 、 現在 の ブカレスト 近郊 で オスマン 帝国 と 戦っ て 戦死 する 。
一説 に は 、 ヴラド に 敵対 する ワラキア 貴族 による 暗殺 と も いわ れる 。
トランシルヴァニア や モルダヴィア と の 複雑 な 関係 で あり 、 ワラキア 領内 で の 粛清 も 多く 、 オスマン 帝国 軍 のみ なら ず 自国 の 貴族 や 民 も 数多く 串刺し に し て 処刑 し た と 伝え られる 。
ワラキア は 元々 土着 の 豪族 による 連合 政権 といった 色合い が 強く 、 有力 な 貴族 の 合議 によって 度々 君主 が 入れ替わっ て いる 。
小国 ワラキア が 長年 にわたって オスマン 帝国 の 侵略 に 抵抗 でき た の は 、 オスマン 帝国 内部 の 紛争 の 他 、 直轄 軍 の 存在 や 積極 的 な 焦土 作戦 の 採用 が ある 。
その 一方 で 、 正教 国家 と は いえ ワラキア 、 モルダヴィア 、 アルバニア など の 小国 が オスマン 帝国 に 善戦 し て いる 状態 で 手 を 引く わけ に は いか なかっ た 。