康正 元年 ( 1455 年 ) 頃 から 義政 の 御内 書 に 副 状 を 添える よう に なり 、 それ まで は 管領 細川 勝元 が 発給 し て い た 副 状 に 代わり 義政 の 御内 書 発給 数 が 上回り 、 幕府 奉行 人 の 管轄 が 管領 から 貞 親 ( 将軍 ) へ 移動 、 奉行 人 奉書 または 御内 書 を通して 義政 の 親政 を 支え 勝元 を 牽制 、 軍事 で も 義政 の 補佐 役 を 務め 義政 と の 会談 及び 方針 を 決定 する 重要 な 役割 を 任さ れ た 。
この 頃 問題 と なっ て い た 斯波 氏 の 斯波 義敏 と 斯波 義 廉 の 家督 争い ( 武 衛 騒動 ) に も 介入 し 、 文正 元年 ( 1466 年 ) に 貞 親 ら は 義政 に 進言 し て 斯波 家 家督 を 義敏 に 与え させる が 、 山名 持 豊 ( 宗全 ) や 義敏 派 で あっ た 勝元 ら が 義 廉 支持 に 回り 、 貞 親 と 敵対 し た 。
また 、 義尚 の 誕生 によって 、 次期 将軍 に 決定 し て い た 義政 の 弟 足利 義視 と 義尚 の 間 で 将軍 後継 問題 が 発生 する と 、 義尚 の 乳 父 で あっ た 貞 親 は 義 視 を 排斥 する ため に 義視 謀反 の 噂 を 流す が 、 義視 が 勝元 を 頼る と 讒訴 の 罪 を 問わ れ 近江 、 次いで 伊勢 へ 逃れ た 。
同時に 真 蘂 や 義敏 、 赤松 政則 ら 貞 親 派 と さ れ た 者 も 失脚 し た 。
しかし 復帰 に 反発 し た 義視 が 同年 11 月 に 出奔 し て 西 軍 に 擁立 さ れ 、 戦乱 が 長期 化 する 事態 と なっ た ( 弟 の 貞 藤 も 西 軍 に 鞍替え し た ) 。
また 、 復帰 し た と は いえ かつて の よう に 重要 任務 を 任さ れる こと は なく 、 西 軍 の 部将 朝倉 孝 景 の 帰順 交渉 を 担当 し た こと 以外 に 目立っ た 活動 は 無かっ た が 、 文明 3 年 ( 1471 年 ) 4 月 に 万里小路 春 房 とともに 蜂起 を 企て た と 疑わ れ て 春 房 とともに 近江 の 朽木 貞 綱 ( 貞 綱 室 は 春 房 の 妹 ) の 元 に 亡命 し て 出家 、 そのまま 引退 し た ( 交渉 は 浦上 則宗 に 交代 、 この 騒動 の 背景 に 反 義視 の 動き に 関わる 公家 層 も 巻き込ん だ 蜂起 計画 が あっ た と する 説 も ある ) 、 2 年 後 の 文明 5 年 ( 1473 年 ) に 若狭 で 死去 し た 。
一方 で 、 貞 親 ら 側近 勢力 こそ が 義政 の 政権 運営 を 支え た 中核 的 存在 で あり 、 文正 の 政変 による 貞 親 ら 側近 勢力 の 排除 が 義政 の 政務 放棄 の 一因 と なっ た と する 見方 も ある 。
貞 親 が 逼塞 し た 期間 に 義政 は 御内 書 を 発給 でき ず 、 復帰 後 も 勝元 ら 細川 一族 が 幕府 に 無断 で 軍事 関係 の 書状 を 内外 に 発給 し た ため 幕府 の 軍事 権限 は 縮小 、 応仁 の 乱 後 に 幕府 の 権力 が 低下 する きっかけ と なっ た 。
また 、 子 の 貞宗 に対して 『 伊勢 貞 親 教訓 』 を 残し た 。
ちなみに 伊勢 新九郎 盛時 ( 北条早雲 ) は 、 貞 親 の 同族 備中 伊勢 氏 の 当主 で 貞 親 と共に 幕政 に 関与 し た 伊勢 盛 定 の 嫡男 ( 一説 に は 盛 定 の 妻 は 貞 親 の 姉妹 で あり 、 貞 親 と 盛時 は 伯父 と 甥 の 関係 で ある も いう ) と さ れ 、 貞 親 の 推挙 によって 義視 に 仕え た と 言わ れ て いる 。
伊勢 貞 親 教訓 ( いせ さ だ ちか きょう くん ) は 、 室町 時代 後期 に 伊勢 貞 親 が 嫡男 貞宗 に対して 著し た 教訓 状 で ある 。
『 為 愚息 教訓 一札 』 と 命名 し て いる よう に 、 貞 親 が 説い て いる 事 は 伊勢 氏 の 当主 として 必要 で ある と 思わ れ た 事 を 記し た 家訓 で あり 、 流布 を 目的 に 書か れ た もの で は ない が 、 武家 、 特に 大 名家 の 後継 者 教育 に 重要 視 さ れる べき 点 について 体系 的 に 論じ られ て いる 。
貞 親 が 「 “ 大名 教育 学 ” の 祖 」 と さ れる 所以 で ある 。
貞 親 は 大きく 分け て 次 の 4 つ の 点 を 重要 視 し て いる 。
中国 で は 、 『 史記 』 の 「 天 官 書 」 で の 名 は 玉 衝 、 唐 の 密教 経典 『 仏説 北斗七星 延命 経 』 で は 廉 貞 ( れん じ ょう ) と さ れる 。
伊賀 氏 の 変 ( い が しの へん ) は 、 鎌倉 時代 前期 の 貞 応 3 年 ( 1224 年 ) 6 月 から 閏 7 月 にかけて 伊賀 氏 によって 起こっ た 鎌倉 幕府 の 政変 。
上記 の 通説 は 幕府 の 編纂 書 『 吾妻 鏡 』 貞 応 3 年 6 月 28 日 条 に 記さ れ た 伊賀 氏 謀反 の 「 風説 」 を 事実 と 認定 し た 上 で の 説 だ が 、 吾妻 鏡 の 記事 中 で は 、 鎌倉 入り の 前 に 事前 調査 さ せ た 泰 時 によって 「 謀反 の 噂 は 事実 で は なく 、 騒ぎ立てる な 」 と 伊賀 氏 謀反 は 否定 さ れ て いる 。
860 年 ( 貞 観 2 年 ) に 千 束 郷 の 総 鎮守 として 宇佐 八幡 から 勧請 さ れ た 。
加藤 貞 泰 ( かとう さだ やす ) は 、 安土 桃山 時代 から 江戸 時代 前期 にかけて の 武将 ・ 大名 。
貞 泰 は 黒野 城 と 城下町 の 建設 に 努め 、 慶長 15 年 ( 1610 年 ) 1 月 に は 黒野 に 楽市 の 免許 状 を 出し た 。