しかし 、 一切 の 所有 を 拒否 する こと など を 含む 、 福音 の 完全 な 実践 を 謳っ た その 内容 に 、 枢機卿 たち は 実行 が 困難 として 難色 を 示し た 。
さ すれ ば 、 福音 を お 与え に なっ た キリスト を 冒涜 する こと に なり ます まい か 」 という ジョバンニ・コロンナ 枢機卿 の 一言 で あっ た と いう 。
こうした 兄弟 団 の 発展 を サポート し た の は 、 オスチア 大司教 の ウゴリーノ 枢機卿 ( 後 の グレゴリウス 9 世 ) で ある 。
フランチェスコ は フォンテコロンボ の 隠 所 に ひきこもり 、 兄弟 団 の 後見人 で ある ウゴリノ 枢機卿 の 助言 も 受け ながら 、 大幅 な 妥協 を 強い られ て 会則 を 書き直し た 。
死後 2 年 に も 満た ない 迅速 な この 処置 は グレゴリウス 9 世 、 つまり かつて フランチェスコ を 庇護 し て 助言 を 与え て い た ウゴリーノ 枢機卿 による もの だっ た 。
小さき 兄弟 会 の 分裂 を 避ける ため の 組織 化 が 図ら れ て い た 時期 に 、 「 純朴 な 人々 の ため の 小さな 共同 体 」 という 性格 を 留め させ て おき たかっ た フランチェスコ 意図 を 汲ん で 、 ウゴリーノ 枢機卿 の 提案 で 作ら れ た もの と さ れ て いる 。
1471 年 、 28 歳 に し て 枢機卿 に あげ られ 、 叔父 が 教皇 に なる まで 持っ て い た サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ ( 聖 ペ トロ を つない だ 鎖 が ある こと で 有名 な 大 聖堂 ) の 枢機卿 位 を 引き継い だ 。
華々しい 経歴 の 中 で 、 教皇 が インノケンティウス 8 世 に 変わっ て も 枢機卿 団 における 彼 の 影響 力 の 大き さ は 増し て いく ばかり で あっ た 。
当時 の 枢機卿 団 の 中 で 影響 力 を 持っ て い た もう 1 人 の 人物 ロドリゴ・ボルジア と は 互い を ライバル 視 する よう に なっ て いっ た 。
しかし 1492 年 の コンクラーヴェ で は 、 アスカニオ・スフォルツァ の 抱きこみ に 成功 し 、 巨額 の 賄賂 によって 枢機卿 たち の 票 を 買い まくっ た ボルジア が 圧勝 し 、 教皇 アレクサンデル 6 世 を 名乗る こと に なっ た 。
アレクサンデル 6 世 は シャルル 8 世 の 腹心 ブリソネー に 枢機卿 を 与える 約束 を し て その 地位 を 保障 さ れ た の だっ た 。
その後 一旦 アレクサンデル 6 世 と 和解 し た が 、 打倒 ボルジア の 野望 を 捨て ず 1503 年 に アレクサンデル 6 世 が 没する と 、 ローヴェレ は ミラノ の ピッコロ ミニ 枢機卿 を 支持 し て 、 教皇 選出 に 大きな 役割 を 果たし た 。
また 前任 者 の 汚職 を 告発 し て いる が 、 ユリウス 2 世 も また 自身 が 関わっ た 少なくとも 2 度 の コンクラーヴェ で 票 の 買収 工作 を 行っ たり 、 即位 後 すぐ に 3 人 の 甥 や 従弟 を 枢機卿 に 任命 する など し て いる 。
1998 年 に 当時 の 教理 省 長官 で あっ た ヨーゼフ・ラッツィンガー 枢機卿 ( のち の 第 265 代 ローマ 教皇 ベネディクト 16 世 ) 及び 同省 局長 タルチジオ・ベルトーネ 枢機卿 によって 示さ れ た 注釈 に は 、 教皇 と 公 会議 による 決定 の うち で 不可 謬 で ある と 、 みなさ れる もの の リスト が 示さ れ て いる が 、 そこ において も 「 これ は 完全 な もの で ない 」 と 述べ られ て いる 。
画像 の よう な 荘厳 な 建物 の ひとつ は 、 エステ 家 の 枢機卿 イッポーリト 2 世 ・ デステ により 1565 年 ごろ から 改修 工事 など が 行わ れ 、 現代 ( 2001 年 ) において 世界 遺産 に 登録 さ れ た もの まで ある 。
バチカン の 首席 枢機卿 パチェッリ 枢機卿 と ドイツ 副 首相 フランツ・フォン・パーペン が 署名 し た この 条約 は 、 教会 が 学校 と 教育 について 自由 を 保持 する かわり に 政治 活動 を 断念 する もの だっ た 。
依頼 者 は 枢機卿 ジャコモ・ガエターノ・ステファネスキ で 、 他 に も ジョット に 聖 ペ テロ を 描い た 一連 の フレスコ 画 を アプス に 描か せ て いる が 、 こちら は 16 世紀 の 建物 修復 時 に 消滅 し て しまっ て いる 。
しかし この 宣言 は 国民 から 猛 反発 を 受け 、 大臣 兼 軍 司令 官 の ルカス・ノタラス 大公 に 至っ て は 「 枢機卿 の 四 角帽 を 見る くらい なら 、 スルタン の ターバン を 見る ほう が まし だ 」 と 公言 し て はばから なかっ た 。
チェーザレ の 幼年 期 より 、 ロドリーゴ は 枢機卿 に まで 昇進 し 、 ボルジア 家 の 発祥 の 地 でも あっ た スペイン ・ バレンシア で は ガンディア 公 位 を ペドロ・ルイス が 承継 し て い た ものの 、 チェーザレ は 父 の 目 の 届く ローマ で 暮らし 、 やがて ピサ や ペルー ジャ の 大学 で 法律 等 を 学ん だ 。
1493 年 9 月 に 開か れ た 枢機卿 会議 において 、 アレクサンデル 6 世 は 会議 の 賛同 を 得 て 、 チェーザレ を バレンシア 枢機卿 に 任命 し た 。