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同日 午後 4 時 頃 、 天王山 の 山裾 を 横切っ て 高山 隊 の 横 に 陣取ろ う と 移動 し て い た 中川 隊 に 斎藤 隊 の 右側 に 布陣 し て い た 伊勢 興 隊 が 襲い 掛かり ( → 「 成句 「 天王山 」 」 ) 、 それ に 呼応 し て 斎藤 隊 も 高山 隊 に 攻撃 を 開始 し 戦端 が 開か れ た 。

光秀 は 戦線 後方 の 勝竜寺 城 に 退却 を 余儀なく さ れる が 、 主力 の 斎藤 隊 が 壊走 し 戦線 離脱 、 黒田 孝高 ら の 隊 と 交戦 し て い た 松田 政 近 、 殿 を 引き受け た 伊勢 興 ら が 乱戦 の 中 で 討死 する など 甚大 な 打撃 を 受け た 。

京 に 入っ た 羽柴 軍 は さらに 16 日 に 長浜 城 の 妻木 範 賢 、 佐和山 城 の 荒木 行重 、 山本山 城 の 阿 閉 征 ・ 大 父子 、 山崎 片 家 ら の 逃亡 または 降伏 によって 近江 を 平定 。

その他 、 小川 祐 忠 、 進士 連 、 可児 才蔵 、 津田 信春 ( = 津田 平蔵 と する 説 あり ) など が 参加 し て い た 。

『 守 謾稿 』 に よれ ば 、 流し の 按摩 が 小 笛 を 吹き ながら 町中 を 歩き まわっ て 町中 を 歩い た 。

基 頼 の 孫 持明院 基 家 の 娘 陳 子 が 守 親王 の 妃 に なり 、 守 親王 は この 邸宅 ・ 持明院 殿 に 居住 し た 。

承 久 の 乱 で 三 上皇 が 配流 に なっ た 為 、 幕府 の 沙汰 によって 、 守 親王 の 子 茂 仁 親王 ( 後 堀河 天皇 ) が 天皇 と なっ た ( 守 親王 に は 太上天皇 の 尊号 が おくら れ 、 後 高倉 院 と 称し た ) 。

苦悩 し た 後 小松 上皇 は 伏見 宮 を 継承 し て い た 栄 仁 親王 の 次男 ・ 成 王 を 自己 の 猶子 として 親王 宣下 を 行い ( 応永 32 年 4 月 16 日 ) 、 万が一 の 事態 に 備えよ う と し た 。

これ に 驚い た 後 小松 上皇 は 一転 し て 成 親王 に 出家 を 迫り 、 7 月 5 日 親王 は 出家 さ せ られる こと と なっ た 。

ところが 、 これ によって 皇位 継承 問題 は 振り出し に 戻っ た だけ で は なく 、 後 小松 上皇 は 称 光 天皇 ・ 成 親王 双方 と の 関係 を 悪化 さ せ た 。

将軍 足利 義教 は 7 月 13 日 成 親王 の 皇子 ・ 彦仁 王 を 秘か に 保護 し た 上 で 後 小松 上皇 に 今後 の 判断 を 委ね た 。

成 親王 の 時 の 失敗 を 繰り返さ ない ため に 称 光 天皇 の 生前 は この 計画 は 極秘 に 進め られ た 。

新 天皇 の 元 でも 後 小松 上皇 が 院政 を 行っ た が 、 成 親王 と の 確執 は 収まら なかっ た 。

これ に は 新 天皇 の 即位 によって 皇統 が 崇 光 院 流 に 復帰 し た と 考え た 成 親王 は 反発 し た 。

それ は 、 「 後光 厳 院 流 を 断絶 さ せ ない こと 、 すなわち 成 親王 に 太上天皇 の 尊号 を 贈っ て 後 花園 天皇 と の 親子 関係 を 認める こと は 許さ ない 」 、 「 自分 の 仙洞 御所 を 伏見 宮 ( 成 親王 ) の 御所 に し ない 」 、 「 自己 の 追号 を 後 小松 院 と する こと 」 で あっ た ( 『 満 済 准 后 日記 』 は 尊号 と 仙洞 御所 の 件 を 合わせ て 「 後光 厳 院 流 を 断絶 さ せ ない こと 」 の 1 ヶ条 と みなし た ため に 2 ヶ条 と 記さ れ て いる の で ある ) 。

これ に 成 親王 は 激怒 し 、 兼良 や 満 済 の 天皇 へ の 不忠 を 詰っ て いる ( 『 椿 葉 記 』 ) 。

だが 、 後 花園天皇 が 成長 する と 、 この 状況 に 不満 を 抱く よう に なり 、 父 で ある 成 親王 や 弟 の 常 王 を 優遇 する 方法 を 模索 する よう に なる 。

続い て 嘉吉 3 年 に は 天皇 から 成 親王 に対して 、 まず 常 の 元服 と 親王 宣下 を 行い 、 その後 に 尊号 を 奉る 意向 が 伝達 さ れ た 。

文 安 2 年 ( 1445 年 ) 3 月 16 日 、 関白 二 条 持 基 の 加冠 によって 常 王 の 元服 が 行わ れ た 。

その 内容 は 不明 で ある が 、 両者 が 後 小松 上皇 の 側近 で あり 成 親王 へ の 尊号 と 、 その 前提 と なる 常 へ の 親王 宣下 に 反対 し て 、 成 親王 や 常 王 に対する 誹謗 を 行っ た と も 言わ れ て いる 。