新潟 市 が 所有 する 旧 日本銀行 新潟 支店 長 役宅 の 愛称 。
設計 は 日本銀行 の 技師 平松 浅 一 、 施工 は 新潟 の 武田 組 。
保有 資産 見直し を 図っ た 日本銀行 が 役宅 を 売却 する こと と なっ た こと から 新潟 市 が 取得 。
安吾 風 の 館 ( あん ご かぜ の やかた ) は 、 新潟 県 新潟 市 中央 区 に ある 文化 施設 。
2005 年 ( 平成 17 年 ) 2 月 に 坂口 家 から 寄贈 さ れ た 、 新潟 市 出身 の 作家 坂口 安吾 の 遺品 ・ 所蔵 資料 を 展示 する 施設 。
建物 は 、 埼玉 県 出身 の 第 8 代 新潟 市長 で ある 柴崎 雪 次 郎 を 迎える にあたり 建設 さ れ た もの で 、 1922 年 ( 大正 11 年 ) 10 月 に 竣工 し た 。
古町 芸妓 ( ふる まち げ い ぎ ) は 、 新潟 県 新潟 市 中央 区 古 町 を 拠点 と する 芸妓 。
京都 で は 芸妓 を 「 芸妓 ( げいこ ) 」 、 見習 を 「 舞妓 ( まいこ ) 」 と 呼ぶ の に対し 、 新潟 で は 芸妓 を 「 留袖 ( とめ そで ) 」 、 見習 を 「 振袖 ( ふり そで ) 」 と 呼ぶ 。
古町 芸妓 の 起源 は 、 元和 2 年 ( 1616 年 ) から 存在 し た 「 新潟 遊女 」 で ある と 言わ れ て いる 。
明治 18 年 ( 1885 年 ) 9 月 7 日 、 新潟 県 南魚沼 郡 塩沢 町 の 清水 峠 から 関東 に 通じる 国道 「 清水 越え 新道 」 が 開通 。
新潟 県 令 篠崎 五郎 が 開通 式 終了 後 に 参列 し た 北白川 宮 能久 を はじめ 、 山県 有朋 内務 卿 ら 一行 を 新潟 区 白山 公園 内 階 楽 館 に 招待 。
四 代目 市山 七 十 世 が これ を 祝っ て 作っ た 曲 で ある 「 新潟 十 景 の 内 - 渡り初め 開化 の 賑 ひ -」 を 披露 する 。
その後 まもなく 「 庄内 屋 しん 」 が 柳原 前光 に 身請け さ れ 、 後藤 象二 郎 長男 の 猛 太郎 の 妻 で ある 古町 芸妓 出身 の 「 三 会 る ん 」 が 伯爵 夫人 と なる など 話題 で 新潟 の 界隈 を わか せ 、 古町 の 芸妓 の 人気 が 過熱 する 。
大正 の 時代 と なり 、 新潟 新聞 社 が 新潟 花街 約 300 人 の 中 から 「 新潟 十 美人 」 を 選定 する 投票 が 開催 。
古町 芸妓 の 「 庄内 屋 八 重 」 で あっ た 藤間 静江 ( のち の 藤蔭 静 樹 ) が 、 新潟 劇場 で 「 藤蔭 会 第 七 回 新潟 公演 」 を 開催 。
そして 、 大正 15 年 ( 1926 年 5 月 10 日 から 12 日 に 新潟 市 で 「 全国 料理 飲食 店 業 同盟 会 第 26 回 大会 」 が 開催 。
2 日 目 の 余興 に 市川 流 ( 藤間 連 ) の 舞踊 、 3 日 目 の 余興 に 市山 流 の 「 連 獅子 」 、 「 新潟 八景 」 、 「 舟江 名物 盆踊り 」 が 披露 さ れる など 、 新潟 の 花柳 界 は その 勢い を 強め て いく 。
そして 、 昭和 10 年 ( 1935 年 ) 11 月 7 日 から 10 日 にかけて 、 新潟 市 産業 組合 が 新潟 花街 の 総力 を 結集 し た 「 舟江 を どり 」 を 開催 。
新潟 藤間 流 門下 名取 一同 の 協議 により 、 藤間 茂 藤 が 西堀通 8 番 町 に 稽古 場 を 開き 、 希望 者 の 指導 に あたる が 、 昭和 41 年 ( 1966 年 ) 古町 芸妓 の 人数 が 168 名 に 、 そして 、 昭和 45 年 ( 1970 年 ) に 古町 芸妓 の 人数 が 136 名 に 減少 。
また 、 昭和 58 年 ( 1983 年 ) に 市川 流 藤間 小 藤 が 逝去 し た こと により 、 新潟 における 市川 流 の 系統 が 断絶 する 。