県 と 上越 市 、 佐渡 市 、 佐渡汽船 など が 国 に対し 、 2011 年 に 創設 さ れ た 「 地域 公共 交通 確保 維持 改善 事業 」 の 直江津 航路 へ の 適用 を 申請 し た 結果 、 2012 年度 補助 事業 分 として 1811 万 円 の 補助 を 受ける こと に なり 、 同 年度 から 新潟 市 と 長岡 市 が 加わっ て 小木 航路 の 検討 委員 会 を 改組 し 「 佐渡 航路 確保 維持 改善 協議 会 」 として 発足 し た 。
以後 、 国 の 補助 を 受け ながら 新潟 ・ 直江津 ・ 寺泊 の 越佐 間 3 航路 全体 の あり方 について 検討 が 行わ れ て おり 、 自動 改札 機 の 導入 や 旅客 名簿 の 提出 省略 など といった 利便 性 の 向上 策 や 、 利用 者 数 の 動向 など を 精査 し た うえ で 運航 体制 の 再 構築 を 図る など 、 3 航路 にわたる 改善 策 が 取ら れ て いる 。
新潟 市 と 佐渡 市 両津 地区 を 結ぶ 新潟 航路 は 、 県庁 所在地 の 新潟 市 が 発着 地 に なっ て いる こと や 、 新潟港 ターミナル が 市街地 に 近く 、 新幹線 や 航空機 など 他 の 交通 機関 と の 接続 が 比較的 容易 で ある こと から 、 長年 にわたって 佐渡 へ の 観光 や 佐渡 市民 の 生活 航路 として 機能 し 続け て いる 。
2010 年 8 月 11 日 、 おお さ ど 丸 が 新潟 沖 を 航行 中 、 エンジン の 出力 を 調整 する 減速 機 の 部品 が 損傷 し て 航行 不能 と なり 、 お盆 の 帰省 ラッシュ や 観光 客 の 足 、 佐渡 島内外 の 物流 に 大きな 影響 を 及ぼし た 。
しかし 観光 需要 は 新潟 航路 ほど 多く なく 、 上越 地方 と 佐渡 市 南部 と を 結ぶ 生活 航路 として の 役割 が 大きい 。
故に 利用 者 数 は 新潟 航路 と 比較 し て 少なく 、 特に 近年 は 慢性 的 な 減少 傾向 に あり 、 慢性 的 な 不 採算 に 陥っ て いる 。
小木 港 の 構造 的 制約 で 10 , 000 t 級 【 国際 トン 】 以上 の 船 は 入港 でき ない ため 、 新潟 航路 の 大型 フェリー を 転用 する こと は でき ない 。
こうした 事 から 新潟 県 は 2007 年 、 直江津 航路 の 存続 について 検討 を 開始 し た 。
だが その 一方 で 、 直江津 航路 は 新潟 航路 とともに 国道 350 号 の 海上 区間 を 担っ て おり 、 仮に 廃止 と なっ た 場合 に は この ルート が 断た れ て しまう こと に なる 。
同年 8 月 に は 「 アースセレブレーション 」 「 小木 港 まつり 」 等 の 開催 に 合わせ 、 新潟 - 小木 間 ・ 直江津 - 小木 間 の 2 経路 で ジェットフォイル の 臨時 運航 を 実施 し た 。
また 、 長岡 市 と 佐渡 市 の 観光 関係 者 ら で つくる 「 長岡 佐渡 広域 観光 協議 会 」 は 2009 年 5 月 28 日 に ジェットフォイル を チャーター し 、 同 会 の メンバー と 国 、 県 など の 観光 ・ 交通 政策 の 担当 者 ら 約 50 人 を 乗せ 、 寺泊 港 沖 と 赤泊 港 沖 を 経由 し て 新潟 - 小木 間 で 試験 運航 を 実施 し た 。
これ は 航路 の 活性 化 に 加え 、 「 あ いび す 」 の 欠航 率 の 高 さ の 問題 など から ジェットフォイル による 航路 へ の 転換 や 、 新潟 ・ 直江津 両 航路 と の 連携 など を 長期 的 に 検討 する ため 実施 し た もの で 、 寺泊 と 赤泊 は 港 の 水深 や 設備 の 関係 で ジェットフォイル が 接岸 でき ない ため 、 沖 から 港内 を 視察 し た 。
妙 高野尻 バイパス ( み ょうこうのじり バイパス ) は 、 長野 県 上水内 郡 信濃 町 と 新潟 県 妙高 市 を 結ぶ 、 国道 18 号 の バイパス で ある 。
長野 県 と 新潟 県 の 県境 部分 の 走行 環境 改善 を 目的 に 建設 さ れ た 。
名古屋 工場 で 2 両 が 改造 さ れ 、 越後 線 ほか の 郵便 荷物 輸送 改善 を 目的 として 新潟 地区 に 配置 さ れ た 。
2 は 1964 年 6 月 16 日 に 発生 し た 新潟 地震 の 際 に 、 落下 し た 陸橋 の 下敷き と なり 大破 、 廃車 と なっ た 。
高砂 工場 の 改造 で 、 当初 は 和歌山 機関 区 に 配置 さ れ た が すぐ に 新潟 運転 所 へ 移り 、 1978 年 に 廃車 と なっ た 。
また 、 台車 は DT 19 ・ TR 49 で 国鉄 仕様 と 同等 で あっ た が 、 新造 時 に は 三菱重工業 DH 2 L - P エンジン に 新潟 コンバータ DB 115 液体 変速 機 を 搭載 し 、 後 に DMH 17 C エンジン と 振興 造機 TC 2 液体 変速 機 という 標準 的 な 組み合わせ に 変更 さ れ た 。
弘治 元年 ( 1555 年 ) 、 越後 国 魚沼 郡 上田 庄 ( 現 ・ 新潟 県 南魚沼 市 ) の 坂戸 城下 に 上田 長尾 家 当主 ・ 長尾 政景 の 次男 として 生まれる 。
長兄 が 早世 し た ので 世子 と なる が 、 永 禄 7 年 ( 1564 年 ) の 父 ・ 政景 の 溺死 を 受け 、 春日 山城 ( 現 ・ 新潟 県 上越 市 ) に 入っ て 叔父 ・ 謙信 の 養子 と なっ た 。